眠っている間にも波は立つ。
つややかな水は腰をくねらせて、燐光を蓄えた夜気がその肌を滑る。
永遠に褪せぬ黒い身体。
紺瑠璃の空の彼方から風がきて、波の間に指を這わせては去っていく。
日差しから移った熱の記憶が大気に溶ける。
空と海。
そのどこかで、かつて朽ち果てたものたちの欠片が飛び交っている。
風が吹き、波は荒れ、おまえは踊る。
いつしか、空気が木槿の色を灯す。
朝が来る。

視界の右側一面に、コンクリートの壁が立っている。
ところどころにビロードめいた濃緑の地衣類が這い、表面を薄く砂埃が隠している。
遠くで断崖の群れが飛び出し、薄墨色のシルエットを残す。
それが断崖ではなく林立するビルだと気づいたころ、ようやく自分が地面に倒れ伏していることにナカタは気づく。
反射的に左手で地面を押し、上体を起こそうとする。
左手は動かなかった。
ナカタは次に、膝を立て、身体の向きを変えようとする。
両脚は動かなかった。
地面に縫い止められたように動けないナカタは、もがきながら ― そうできていると思い込みながら ― 自らの可動域を探る。神経伝達と筋肉の緊張・弛緩がナカタの身体を蠢かせ、地面との関係性を断続的に定め直そうとする。
そうしているうちにナカタは、今の自分を取り囲む不能が何に由来するものなのかを見失う。機材の不備、場所の不備、神経系の損傷、精神的な抑制。無数の可能性の中でナカタは痙攣し解体される。

デバッグが終わるといつもナカタは真っ暗な部屋で目を覚ます。
暗転した視界の向こう側に、現実の暗闇が広がっている。
停止されたソフトがいっせいに感覚刺激の生成を止め、身体が凪へと還るのを感じている。ぬるい空気と厚手のカーペットがナカタの全身を包み、空間の奥へと仕舞い込んでいく。 ゲームから起きるとき、多くの人間は身体に戻っていく感覚を覚えるという。しかしナカタにとってそれは、アバターによってかろうじて結び付けられていた身体がほどけていくと言ったほうがよほど近かった。ゲームの中と外、どちらがリアルかという数世代前の問いではない。もはやその二つは共に現実であり、人々は身体を自由に出入りしながら、必要に応じてそれらを結び付けられるだけの可塑性を身につけていた。ただナカタだけが、いまだに現実の身体に対する過剰なフェティッシュに取り憑かれていた。
暗闇の中へ自分の身体が溶け散っていく瞬間、残り火のような鈍痛がかすめた。それが一体自分のどこに生じた痛みなのかを、ナカタは思い出すことができなかった。

ナカタが〈WAY OUT〉のデバッグを打診されたのは二週間前、ちょうど別口のシューティングゲームのデバッグを終えたタイミングだった。
最初に〈スラスター〉からのコンタクトメッセージを読んだ時、ナカタはそれを十中八九スパムだと思った。
フリーランスデバッガーとしてはまだ駆け出しのナカタにやってくる依頼のほとんどが個人開発者か、せいぜい数十人規模の新興プロジェクトによるもので、〈スラスター〉ほどの大手が自分に依頼する必然性はないように思われた。なにより、シミュレーションゲームとの触れ込みがあった〈WAY OUT〉が、自分のデバッグ適性に合致しているとは到底思えなかった。
XRコンテンツが前提となり、ゲームという形式が「知覚のモードを変更するアタッチメント」程度にまで一般化された現代において、デバッグはコードとのにらめっこやランダムな世界探索を意味しない。デバッガーが見つけるバグとはプログラム上の破損ではなく、ワールドと人間の間に生ずる様々な不和となった。
デバッガーはテストプレイを通じて、それぞれのワールドに適した動きを探索し、要求される物語に適った精神を調律する。それはいわば、ダイバーや登山家が極地環境に適した身体をつくること、あるいはアスリートがスポーツドクターとともに最適な肉体の操作法を一からデザインすることに似ていた。必然的に、彼らが第二のキャリアとしてデバッガーを選択することは珍しくなくなった。
コンテンポラリーダンサーというナカタの前歴は少々異質ではあるものの、複雑で非直感的な身体操作を日常的に行うダンサーの経験は、異種変身系のアクションゲームをはじめとしたマーケットで重宝されているらしく、実際に舞い込んでくる仕事のほとんどがそうしたジャンルに類するものだった。
だからこそ、今回の〈スラスター〉の依頼は異様だった。そもそも大手企業では、アスリートを文化人類学者や認知科学者のチームがバックアップするかたちでデバッグにあたることが一般的であり、フリーランスの個人にプレイを任せる意味はわからなかった。
結局ナカタは何度かのメッセージののち、依頼を受けることを決めた。理由は二つ。一つは相手が正真正銘〈スラスター〉の開発部であると確認できたこと。もう一つは、個人開発者とのコラボレーションとは桁違いの報酬を約束されたこと。
おそらく〈WAY OUT〉は〈スラスター〉にとって、主要市場の商品ではないと判断されたのだろう。ゆえに社内のリソースを大きく割くわけにはいかないのだ、とナカタは自分を納得させた。それは〈WAY OUT〉にとっては不運なことだが、ナカタにとっては幸運なことに思えた。

テストプレイ環境へのアクセス権限と開発資料のファイルセットは、ナカタが契約を済ませて数日もしないうちに送られてきた。
開発資料は思ったよりも少なかったが、その内容は多岐に渡っていた。デザイン方法論、マン・マシン・インターフェース、神経科学、流体力学あたりはともかくとして、ボルネオの少数民族に関する長大な文化人類学的記録や、精神疾患の治療法の歴史的変遷、中性子星の形成シミュレーション、ライプニッツや華厳哲学の解説書まで来るともうナカタにはお手上げだった。スワイプとともに現れる環境微生物についてのレポート。ナカタは以前から囁かれていた噂を思い出していた ― 〈WAY OUT〉では、独自の微生物環境がまるごとデザインされ実行されているらしい、と。目に見えない微生物を、しかも既存データをあてはめるのではなく実際にシミュレーションすることになんの意味があるのかナカタにはわからなかった。そしてそれはおそらく、ほとんどの人間にとってもわからなかった。そうでなければニイジマの急逝後、〈スラスター〉に二束三文で買い叩かれることはなかったはずだ。
〈WAY OUT〉は噂だけはよく聞く典型的な都市伝説ソフトとして、一部で有名だった。もともとの開発は〈エディンバラ・コンストラクション〉。チェンマイに拠点を置きながらスコットランドの首都の名を冠するこの奇妙な企業は、個人開発者として名を馳せたニイジマを中心としたチームによって設立された。リリースされる作品はどれも一見するといわゆるゲームアートに近いもので、実際何度かそうしたアワードにノミネートされていた ― すべて辞退していたようだが。
ふと、生前のニイジマのインタビューファイルが目に留まる。ナカタが知る限りニイジマは、作品の解説を好まない人間のはずであった。
― ゲームとはインタラクションです。そして、究極的にインタラクションが示すものとは、その可能性ではなく不可能性です。プレイのたびに思ったことはありませんか? 『なぜこのオブジェクトは動かせないのか』『なぜこのキャラクターは三十ピクセル単位でしか移動できないのか』と。たとえそうしたさまざまな不自由が解消されたとしても、あなたはこう思うはずです。『なぜこのゲームと自分の世界は異なっているのか』と。〈WAY OUT〉はそうしたインタラクションの迷宮からわたしたちを解放することを目指しています。たとえば微生物。微生物たちは目に見えず、わたしたちは彼らの起こした化学的な変化や遺伝子のかけらからそのふるまいを推し量るしかありません。近年ではわたしたちと微生物の共生関係を指して、人間と微生物は二つで一つの存在なのだと言う人もいますが、それらもすべて、インタラクションという二十世紀の亡霊を引きずった考え方に聞こえます。わたしたちは交わらないことを、伝わらないことを、今一度考え直すべきでしょう。さあ、今すぐコントローラーを手にとり、そして放してください ―
十五分程度のインタビューはそう締め括られた。個人開発者によくある誇大妄想的な主張だと、ナカタは思う。しかしその声にアイデアの熱に浮かされたトーンはなく、ただ当たり前の事実をうんざりしながら説明しているといったほうが近かった。
ナカタは開発資料に目を通しながら、昼に〈スラスター〉から届いたパッケージを開封していた。簡素な梱包の中からマウスピースとボディジェル、そして一ダースの調風装置があらわれる。それはハンドアウトによれば〈CV-9〉、通称では〈ラッシュ〉と呼ばれているものであった。
〈スラスター〉が新しいXRシステムを開発していることはナカタも知っていたが、実際に目にするのは初めてだった。ナカタは服を脱ぎ、全身にボディジェルを塗る。わずかにざらついたテクスチャが 肌の上で伸び、オレンジピールとアーモンドの香りが立ち上がった。気化熱による冷えが皮膚を包み、やや遅れて緩慢な痺れがやってくる。ボディジェルに混ぜ込まれた無数のマイクロマーカーが同期し、皮膚上にネットワークが構築されている。ナカタの輪郭はマイクロマーカーを単位とする点群に近似され、情報空間へと重ね合わせられる。それは全身を研ぎ澄ますようにも、麻痺させるようにも思えた。
ジェルを塗り込みながらナカタはマウスピースを手に取る。医療製品を思わせるぺったりとした水色。部位ごとに質感が変わり、歯を包む硬質なエリアから喉の奥に向けて、柔らかな突起が伸びている。長く平たい突起はだらりと垂れ下がり、こぼれた犬の舌を思わせた。ナカタはその〈舌〉の先端にジェルを塗り込むと、遠慮がちに咥え込む。薄い〈舌〉はずるりと喉奥に滑り込み、ナカタはわずかにえずく。顎を噛み合わせると、マウスピースは歯と歯茎に、そこから伸びる〈舌〉は口蓋から咽頭の手前までに密着して収まる。ナカタはオブラートがへばりついたようなわずかな違和感を覚えながら、唾液を呑み下す。グリセリンの甘い味がする。
ナカタはサーキュレーターを床と天井の四隅、計八ヶ所に取り付ける。マシュマロに似たサーキュレーターの躯体は、表面を包むスウェードめいたナノファイバーで壁や天井に吸い付くと、内部のモーター群を震わせながら形を変え、ゆっくりと部屋を這い回り始める。部屋の形状とサーキュレーターの相互関係、そしてナカタの位置とサイズを走査している。やがて動きが止まり、サーキュレーターはめいめいに呼吸をはじめた。
〈ラッシュ〉はいわば、大気を媒質としたゲームプレイ用のハードウェアである。サーキュレーターを通じてプレイエリアの大気中に微機械を散布することで、プレイヤーと環境の状態を包括的に把握し干渉する。そこではプレイヤーのすべての挙動は入力となり、マイクロボットたちはその時々にセンサとなり、出力機となる。
XRコンテンツのハードウェアは、ボディスーツをはじめとしたウェアラブル化か、ホログラムやプロジェクションによる空間演出か ― つまり身体と空間のいずれにその機構を託すかで大別されてきた。〈ラッシュ〉はそのどちらにも属さず、人と環境の間を対流する動的な現象としてゲームワールドを媒介する。
ナカタはマウスピースを噛み締め、〈WAY OUT〉を起動する。
真っ暗な部屋の中でサーキュレーターの音がひときわ激しくなる。同時に全身の肌がチリチリと粟立ち始める。ナカタの皮膚を包むマーカー群が、部屋を吹き荒れるボットの粒子と通信しているらしい。青臭いオゾンの匂い。
ナカタは舌と喉を鳴らして、サーキュレーターの出力を調整する。ナカタの口内から咽頭までを包む マウスピースは脳波と生化学的な変化に対するセンサであると同時に、コンソールとしても働いていた。
やがてナカタは、全身が弛緩していくのを感じた。腕がだらりと垂れ、膝が笑い、緩んだ口元から 涎が糸を引く。口蓋から咽頭にかけてへばりついた〈舌〉が小脳と延髄に作用し、体性感覚と循環系にフィードバックを及ぼしているようだった。
身体を包む脱力感はナカタがくずおれる寸前で引き、緊張へと転じる。全身の筋肉が硬直し、垂れ下がっていた手足が身体の中心へと引きつけられていく。ナカタは歯を食いしばりながら部屋の中心でうずくまり、身体を丸める。プレイ開始前の準備姿勢。
やがてうっすらと見えていた部屋の輪郭が消え、視界が完全な暗闇に包まれる。デバッグ用に普段から眼球に貼り付けた擬似網膜が起動していた。
数秒の静寂ののち、ナカタの耳元で声が聞こえる。
― ようこそ

〈WAY OUT〉のワールドは現実と大差なかった ― 少なくとも視覚上においては。ナカタの視界には、曇天の下に立ち並ぶ中層ビルとその隙間を縫う道路、遠く山裾を削るように点在する住宅が収められていた。おそらく二〇一〇年代ごろのどこかの地方都市を模しているのだろう。何の変哲もない風景。それが九十度傾いていることを除けば。 ナカタは幹線道路の真ん中に倒れていた。ひび割れたコンクリートの路面に掠れた白線が伸びている。人通りはない。道路脇には巨大なスーパーマーケットと駐車場、等間隔に並ぶ刈り込まれた街路樹が見える。
ナカタは身体に力を込めて立ちあがろうとする ― 何度目だ? ナカタは〈WAY OUT〉の初回起動時からずっとそれを試み、失敗していた。かろうじて眼球を回転させられる程度で、あとは指一本、動かせる気配はない。身体とまったく同じ形のブリスターパックに閉じ込められた気分だった。 初めこそ〈ラッシュ〉の機能不全を疑ったものの、他のソフトは問題なくプレイ可能であること、および起動中の実行ログの形跡から見て、可能性は低いと言えた。
それならばソフトにバグが ― 旧来的な意味でのプログラミング上の瑕疵が ― 残っているのではないかと考えたナカタは、〈スラスター〉の担当者に事の詳細とプレイデータを送付する。結果は「本社でのテストプレイ時と同様の挙動であり、問題は見られない」の一言に留まった。
ナカタに残された道は二つ。ソフトかハードのバグを証明するか、ゲーム内の身体を乗りこなしてみせるか。ナカタにとって成功の可能性が高いのは後者だと思われた。
〈スラスター〉との契約では、一週間のうち最低四十時間以上の〈WAY OUT〉ワールドへのログインが義務付けられていた。通常のデバッグの場合、現実空間での身体調整などを見込んで、一日のプレイ時間は長くとも五時間程度に抑えるのが通例である。ナカタは長時間のプレイを前提としたこの契約を当初、〈スラスター〉が開発を急いでいるためだと考えていた。しかし、テストプレイを重ねた今、別の可能性に思い至らずにはおれなかった。
〈WAY OUT〉はそもそも、超長時間の連続的なプレイを前提に構築されているのではないか、と。
〈WAY OUT〉に朝が来る。やがて夜が来る。朝が行く。夜が行く。陽光が頬を灼き、視界が白く乾いていく。雨の溜まった耳朶が遠雷に震える。延びる影の姿が変わり、やがて夕闇に溶ける。視界の端で、何者かの残像がちらちらと瞬く。
その全てにナカタはただ晒され続けている。
ログアウトして真っ暗な自室に戻ると、サーキュレーターの静かな呼吸音が響いている。ナカタは自分の手脚が動くことを確認し、立ち上がる。砂糖の焦げる香りがする。ナカタは部屋を充たしているマイクロボットのことを思い出す。動けないナカタの上にしんしんとボットが降り積り、やがてナカタの姿を覆い隠す様を想像する。
六千万年後、凝灰岩めいたボットの地層から出土するナカタの化石。
ナカタはサーキュレーターの電源を落とす。
自分は本当に動けないのか、それとも動く気がなくなってしまったのか。ナカタの意識はそれを断言できないほどに、どろりと凝っていた。感覚を遮断すれば集中力が高まり、より純粋な意識の輪郭を捉えられる ― それは思い込みにすぎない。そうした状態で考えたつもりになっていることのほとんどは、単なる記憶の反芻か常套句の発作、あるいはそれらの組み合わせである。人間の意識は脳と身体、身体と環境のあいだが適切に演出されたその一瞬だけ、そこに立ち上がる。
ナカタはかつての自分の踊りを思い出している。踊りに没入するほど、ナカタの身体そのものは骨と筋肉の協調体へと純化し、がらんどうになる。その代わりに、身体とステージ、観客のあいだへとナカタは流れ出る。よい踊りは、鑑賞者とダンサーの距離を自在とする。客席の最後列から自分の足先の一点へ、その意識をつまみ上げることさえ容易である。それは単なる感情移入のような低解像度の操作ではない。ダンサーと観客が、身体を、感覚を、自己の及ぶ領域を展開し合う中で生まれる対流である。
汗の蒸気に充ちた虚空の中で飛沫く、延長された身体。
ナカタにとって踊りとはそのようなものであり、それこそが自分の中で唯一、意識と呼ぶにふさわしい瞬間だと思えた。
だから、コンテンポラリーダンスをやめた今のナカタに意識はない。
身体もまた、ない。
ナカタが現役を引退したのは数年前、腰椎を損傷してのことだった。
別に公演中の怪我でも、不幸な事故でもなかったし、人生が車椅子やベッドの上に縛られるほどの重篤なものにもならなかった。それはささいな偶然であると同時に、身体の構造や生活習慣といったさまざまなパラメータが連動した結果の必然でもあった。つまり、ナカタがナカタとして生まれた以上、いつか避け難くやってくる不調に属するものであった ― たとえダンスを志していなかったとしても。
そこに、語られるべき悲痛な物語はなかった。ナカタはただ、無意味に踊りから引き剥がされた。亡霊には身体はなくとも意識がある。ゾンビには意識はなくとも身体がある。 では、身体と意識を失ったナカタは何と呼ばれるべきだろうか?
やがてナカタはデバッガーとなる。デバッグを通じて、一時、ありえたはずの自分の身体を感じられるから。そして、ふたたびステージに戻るための治療費を貯めたいから ― そんなものはどれも、ナカタが考えたことではない。踊りを失った肉体にできることは、ただ、その記憶を壊れたように再生することだけだからに過ぎない。ナカタは真っ暗な部屋で寝転がり、仮想の身体を痙攣させる。どこへも行けないまま。
ようやくナカタは、〈WAY OUT〉で転がっている自分を思い出す。日没、紫のノイズに沈んでいく路面に、白線の跡が青みがかった光を残していた。
ナカタの左腕が空に向かって立ち上がり始める。
真っ直ぐに延びる幹線道路の中心で、骨張った肉が頼りなく空を目指す。
街路樹が何枚かの葉を散らし、スーパーマーケットのガラスウォールが震えながら夜をその薄い身体に浸み込ませた。
腕はきりきりと捩じ上げられ、いくつかの関節を脱臼しながら、ナカタの上半身をやや浮かせた。
それきり、ふたたびナカタは静止した。

イズミのプライベートスタジオは福島の山中にあると聞いていた。
「裏の森でも一緒に歩こうか」
マネージャーに案内されてやってきたナカタを見ると、イズミはそう言った。トレーニングウェアが汗に煙っていた。
練習が終わってイズミが戻ってきた頃には、もう夜半過ぎだった。スタジオの裏手の森はじっとりと草木の呼気を孕んで濡れ、月がガラス質の光をその中に突き刺していた。ナカタはイズミの車椅子を押しながら登山道らしき道を歩く。
「ちょうどよかったよ。昨日まで雨が降っててね」
イズミは先ほどのトレーニングウェアから黒いスーツに着替えていた。ナカタが現役の頃から、イズミの私服はこれ以外に見たことがなかった。
「いい場所だ」
ナカタは立ち止まって道の脇を見る。梅雨の終わりの山肌は濃緑に染まり、闇の中でてらてらと光っていた。その奥に、南天に似た赤い実が隠れている。
「ナニワズか。もう少し早いとね。いい香りなんだ。いちめんに黄色い花が咲いて」
イズミは短く言葉を切りながら喋る。以前より少し、呂律が怪しくなっているようだった。華奢な骨格とどこかあどけない身振りは、夜の森に似たしっとりと暗い瞳と奇妙なずれを湛えている。
「イギリスだったかな。最後に一緒に踊ったのは。きみは必死に縋り付くみたいで、ちょっとおそろしいように見えて。でもなんだか活き活きとしてて。死にそうになればなるほど。犍陀多だっけ。蜘蛛の糸。あんな感じだったな。また踊りたいね」
イズミはナカタが現役時代に同じスタジオに所属していたコンテンポラリーダンサーである。年齢も三十後半とナカタと大きくは変わらないが、今となってはダンサーで名前を知らない者もいなくなった。ナカタは故障の直前にスタジオを移って以降、連絡をとっていなかった。だからイズミはおそらく、ナカタの怪我も、引退のことも知らない。蜘蛛の糸。まったく厭な喩えだと、ナカタは苦笑する。
「またすぐに日本を出るの?」
登山道をやや逸れてしまったらしく、絡まる木々の根の隆起が車椅子を止めた。イズミはつい先週までベルリンで公演をしていた。その前はインドネシア。
「新しい振付を考えなくちゃいけなくてさ。しばらくかかるだろうな。ワークショップとかしてさ。ほら、今度は脚がね」
イズミは先天性の神経疾患を抱えていた。パーキンソン病にも似ているが、大脳基底核だけでなく小脳、脊髄、大脳皮質まで散発的に神経細胞や伝達物質の減少が見られる。その結果、運動能力はもちろん、一部の感覚器官にも麻痺が生じていく。いまのイズミの症状は、両腕の震え、両脚膝下の麻痺、視聴覚の著しい低下といったところだった。ナカタとの会話も、半分以上はわかっていないだろう。
「ちょうどいいね。ちょっと観てってよ」
そう言い終わらないうちにイズミはスニーカーを脱ぎ捨てて車椅子から飛び降りる。腰から背中の曲線をなめらかに滑らせて受身を取りつつ、半回転した身体は泥の中で四肢を開いて静止する。
あたりには太い木の根があちこちに盛り上がり、複雑な多角形の網の目を作っていた。その目の一つ一つに昨日までの雨が溜まり、泥のプールになっている。上澄みの水が月の光に照り、イズミは巨大な割れガラスの上に寝転がっているように見える。
わずかでも動けばそのまま地底の底に落ちていく、そう思ってしまうような緊張感が、根を伝って空間の隅々まで張られる。
その場は一瞬でイズミそのものになる。
ナカタの足元からイズミの感覚が這い上ってくる。体幹から伸びる鋭い緊張の糸が、肘と膝を境に消えている。麻痺のある手足先が脱力したまま投げ出され、張り詰めた体幹と強いコントラストをつくる。それは萼から伸び上がった花弁がいつしか重力に身体を反らせるような、洗練された力のコンポジションであった。
ガラスの上に咲く一輪の花。
ナカタはそこで、木の根の間にぼんやりと、紫色の星が瞬いていることに気づく。
それは無数の小さな花であった。
それぞれが二センチにも満たない星型の花が群生している。
その中心で咲くイズミの身体が捻れ、水面を滑るように移動する。肘と膝、背中と頭をかわるがわる支点にしながら、イズミは不規則にスイッチする回転体となって空間を駆け回る。泥に塗れた全身は徐々に森へと溶け込み、移動に使われない両手足先だけが、イズミの白い肌の色を輝かせている。
その手足先は移動のたびに揺れ、軽やかに水面に触れる。根で区切られた水盤のそれぞれに波紋が立つ。イズミの姿が、水面を鍵盤とした楽器を奏でるように見え始める。
瞬く紫の花、白く輝くイズミの手足、律動する波紋、それぞれが暗い森の奥でめいめいに灯り、また奥へと消えていく。
イズミの身体が雨となって、森に降り注ぎ、地面に触れる一瞬に燃え上がる ― ナカタはそんなイメージを全身で感じていた。
やがて感覚の雨が止み、イズミの身体はふたたび空間の中央で咲いている。
投げ出された右手がだらりと垂れ、指先がわずかに水面に触れる。
波は立たず、鏡のようにその姿を映している。
蜘蛛の糸を垂らす釈迦の御手を、ナカタは思い出している。
ナカタは〈WAY OUT〉の糸口を探るために、イズミに会うことを思いついた。結局あれ以降、ふたたびナカタは指一本動かせない状態に戻っており、いよいよ我慢の限界が近づいていた。卑劣の部類に入る他人の使い方だと、自分でも思った。自分よりもずっと重い傷を負い続けながら、成功を収めているイズミ。しかし時折ナカタは、むしろイズミほどのわかりやすい傷が自分にもあったなら、他にやりようもあったのではないか、と考えてしまう。ナカタは自分自身の中に何もないからこそ、踊ることで世界と関わりたかった。イズミの病状は今も進行し続けている。いつ切れるとも知れない糸を手繰っているのはイズミのほうだというのに、ナカタはその悲痛な身体を、物語を帯びた身体をどこか羨ましく思っている自分に気づく。ナカタは起き上がってくるイズミをどんな顔で見ればいいのか、わからなくなる。
イズミは車椅子に戻ってくる時、あの紫色の花をいくつか摘んでいた。
「これはイワタバコ」
葉を揚げると美味しいからあとで一緒に食べよう、とイズミは続けた。
ひとしきり踊って高揚したのか、散歩の帰り道、イズミはナカタに自分の踊りについてしきりに尋ねた。ナカタは曖昧に受け応える。車椅子を押しているとイズミの顔を見なくて済むから、少し気が楽だった。
「あんまり喋れなくなるかもね。もうちょっとすると」イズミはイワタバコの花を唇に咥えながら零す。
「身体が自分で無くなっていくのは慣れないよ。毎朝起きるたびに、新しい世界との付き合い方を考えなくちゃいけない。そんなの、踊らずにいるほうが、難しい」
ナカタに語ったのか、自分に言い聞かせたのか、それきり、イズミは車椅子の上で眠ってしまった。遠くの山裾が青く燃えている。朝焼けまでにスタジオに戻ろうと、ナカタは思う。

朝が来る。それが現実の朝なのか、〈WAY OUT〉の朝なのか、ナカタにはもう区別がつかない。
イズミとの再会以来、ナカタは昼夜を問わず常に〈WAY OUT〉のワールドに存在していた。おかげで、この世界の動きの原理にもおおよその仮説が立っていた。
ナカタは風を待っていた。
街路樹がざわめき、道路の向こうから風が吹いてくる。その風に意識を集中させ、全身で受け止めるイメージを持つ ― ナカタの身体は腹部を中心に空へと浮き上がる。遠くのビル群と目線が揃う。幹線道路が都市を切り裂いて、山にトンネルを穿っている。その山の中腹に野焼きの煙が立つのが見える。ややすると、ナカタの身体を煽っていた風が逸れ、ナカタは螺旋軌道を描きながらゆっくりと地面へ落下する。
〈WAY OUT〉では、気流に乗った動きだけが唯一可能であった。そう言うと、ある種のフライングシミュレータにも似ているが、〈WAY OUT〉のそれはワールド自体の設計思想による副産物に思えた。

おそらく〈WAY OUT〉では、身体に対する大気中の微粒子の密度と濃度が極端に高く設定されている。
具体的な数値は身動きの取れないナカタには知る由もないが、関連資料に中性子星の大気組成に関する研究が含まれていたことをふまえると、微粒子それぞれの密度設定は最大で2.5×10^20 g/m^3、つまり原子核密度程度までと考えて不思議はないだろう。その場合、マイクロメートルオーダーの微粒子一つが数十キログラムの質量を持つことになる。現実の環境大気中のエアロゾルの質量濃度は10^-12~10^-3 g/m^3程度であるから、文字通り比較にもならない。
いわばナカタは鉄球で満たされたボールプールの中に埋められているようなものであり、ボールプール全体が流動しない限り、ナカタの身体が動くことはない。そこまではなんとか理屈づけられたものの、いつ来るとも知れない風をただ待って、なすがままに吹き散らかされるだけの体験に何の意味があるのかは、まだわからなかった。
一口に風と言っても乗れる風とそうでないものがあるらしく、それもナカタを戸惑わせた。どうやら気流に積極的な意識を向けるほど干渉可能性は高まるように思えたが、それが限界状態のナカタがこじつけた妄想でない証拠はどこにもなかった。実際、〈WAY OUT〉のワールドにログインし続けているナカタの主観は、もはや道端の落葉のそれに近いように思われた。一日のほとんどを路面に伏しながら過ごし、朝夕に吹く潮風に導かれてわずかに場所と姿勢を変える。時折気絶するように眠っては目覚めるサイクルだけが、ナカタが人間であることを示していた。しかしナカタは、自分は眠っているのではなく、瞬間的に主観を喪失し始めているのではないか、との疑いさえ持ち始めていた。
外力以外では動けないという仮説は、かえってナカタの不能感を強化していた。もともと引退以来、希薄だったナカタの身体感覚は急激に消えつつあった。それはある種の離人症にも近く思われた。
コタール症候群と呼ばれる精神障害がある。コタール症候群の患者は「自分はすでに死んでしまっている」と思い込むことで知られ、命名者のジュール・コタールはこれを虚無妄想と称した。原因は定かではないものの、仮説の一つとして、身体感覚に対する違和感やそれに伴う現実感覚の喪失、離人感が挙げられることがある。要するに、自分が現実に対して実感を持てないのは自分がすでに死んでいるからだ、というアクロバティックな論理化が行われているとする説である。事実、コタール症候群の患者には「自分は死んでいる」と主張する者もあれば、「自分は不死者であるから死ぬことができずに苦しんでいる」と主張する者もあるという。「自分が縮減し消えてしまう」と恐れる一方で、「どこまでも自分が巨大化し、世界を覆い尽くしてしまう」妄想に取り憑かれる。この両極端な主張は、その根底に身体感覚の不全があると仮定すると、確かに理にかなって見える。
寄る辺となる身体を失った者たちにとって、死と不死、零と無限は同様に親しみ深い、発散の道標である。
ナカタはナカタであり、イズミであり、ニイジマであった。
ナカタは落葉であり、路傍の礫であり、腐りゆく虫の死骸であった。
ナカタは山の向こうから潮風を運ぶ海であり、そこから蒸発した積乱雲であり。それらの間を吹き荒れる風であった。
ナカタは〈WAY OUT〉の時間と空間を充たす巨大なボリュームへと、自分が変じていくのを感じていた。全身の筋肉の連動と力の伝播を感じ取れるように、気圧の偏りと大気の移動を認識した。汗が弾み、雨が地表を濡らす。まなざしを滑らすたびに、太陽が都市を舐める。砂が舞い、水が流れる。
ナカタは〈WAY OUT〉の大気そのものとなっていた。
ナカタは久しぶりに踊りの感覚を、自分が場へと広がっていく感覚を覚えている。
風が吹き、渦を巻き、細かく枝分かれしながら世界に浸み込んでいく。そのダイナミクスが、ナカタの思考を駆動する。ナカタは雨風のきっかけとなる気圧や湿度のゆらぎを準備電位として、そこに自由意志めいたものを仮構していた。
〈WAY OUT〉に風が吹く。雨が降り、雲間から太陽がのぞく。その度に、ナカタの人間としての身体は起き上がり、倒れ、捩れ、折れ、外れ、丸まり、広がり、痙攣した。目まぐるしくうつろう空の下で、がらんどうのナカタは一人、踊っている。

どれほどの時間を過ごしたのだろう。
気象現象そのものとなったナカタにとって、それは認識外のことだった。ナカタは、いつか聞いたニイジマのインタビューを思い出している。今のナカタには、ニイジマのやりたかったことがよくわかった。
ニイジマは〈ラッシュ〉を通じて、現実世界の気象現象の中に自分の情報パタンをアップロードする ことを試みたかったのだ。〈ラッシュ〉のマイクロボットが充分に広い環境に散布されれば、あとは気象変化のダイナミクスを利用して、人間一人分の、それもごく限られた知覚・情動のパタンを読み書きさせる程度、造作もないことだろう。
ニイジマは雨になり、風になり、この世界の中で永久に踊り続けようとしていた。ニイジマが飽き飽きしていたインタラクション。それは人間が細胞膜を自己定義の礎にしている限り、決して抜け出せない隘路のことだ。膜を前提にすれば、あとは触れ方と抜け方しか話すべきことは残されていない。それはニイジマにとって、退屈な世界であった。ニイジマは確かに、コントローラーを手放そうとしていた。気象現象そのものとして、あらかじめすべてのものに触れておくことによって。その欲望は〈WAY OUT〉を体感したナカタにとって、もはや否定し難いものだった。
何千回目かの〈WAY OUT〉の夜が明ける頃、現実世界でも節分の朝が巡ってきて、ナカタの端末に二通のメッセージが投げ込まれる。一通は〈スラスター〉から、もう一通はイズミのマネージャーからであった。

ドローンは高度三〇〇メートル付近で安定した。ナカタは地上に目をやる。澄んだ翠色の海を裂いて砂嘴が伸びている。真っ白な砂は遠浅の海に透け、一条の乳が流れ出すように見える。その先端から、イズミを乗せた一隻のモーターボートが出発する。ソロモン諸島のやや北東。ツバルやナウルに囲まれた赤道直下の海は、波ひとつない。
イズミが植物状態になったことを知ったのは、〈スラスター〉からデバッグのレポートを求められた日のことであった。
イズミのマネージャーによると、回復の見込みがなくなった時点で、家族とナカタを含む親しい友人にこのメッセージを送るようにイズミから指示を受けていたという。
同封されていたドキュメントには経緯度情報とともに、
〈null〉
〈06/23 13:00-〉
とだけあった。ナカタはそれが、イズミの公演を示すものであることを理解した。
現役のころ、ナカタはイズミに「ダンサーとして限界が来たらどうする?」と訊かれたことがあった。ナカタは「土木作業でもする」と答えた。やや置いてイズミは「海にでも流してもらおうかな。波の間でなら、死んでも踊っていられるもんね」と言った。ナカタは何も返さなかった。ナカタはイズミの、笑えない冗談が嫌いだった。イズミは「踊りたかったら来てもいいよ」と付け加えた。
あの冗談を実現しようとしているのだと、ナカタは思った。ドキュメントの経緯度情報は、ミクロネシアあたりの無人島を指していた。台風のない赤道付近の穏やかな海であれば、それなりのあいだ漂っていられることだろう。
どうして ― どうしてそこまでして踊るのか、と、もはやナカタはイズミに訊けない。物理的に訊けないし、訊く資格もない。ナカタもそれなりに踊りにこだわって、人生と、第二の人生をそれにつぎ込んできた。その結果、ナカタとイズミはそれぞれに異なるものを選ぼうとしている。
世界のすべてに触れ続けながら踊るナカタと、世界のすべてから引き剥がされてなお踊るイズミ。ただそれだけの違いだ。
ナカタは〈スラスター〉からのメッセージに返信を用意する。数万時間近いプレイログに一通の企画書を添えて。
ドローンはゆっくりと高度を下げていく。海面に機体の影が落ちる。イズミの姿がよく見えた。
血色はよく、浸透圧調整機能を付けたボディフィルムの上から、いつもの黒いスーツを着ている。手脚には姿勢制御用のフィンが嵌められ、翅を畳んだ虫を思わせた。背中には浮力タンクと約二週間分の栄養輸液の点滴パック。鎖骨あたりに開いた縦長の傷口には、人工鰓が埋め込まれている。
イズミの最期の公演には、ナカタとマネージャーしか姿を見せなかった。イズミが家族や友人とどのような関係なのか、ナカタは知らない。
マネージャーがゆっくりと、イズミを舳先から海へと押し出す。飛沫も上げずにイズミの身体は着水し、つるつると沖へ流れていく。ナカタは急いで、ドローンの高度を上げる。 海面に影響を与えないぎりぎりの高度でホバリングするドローンの上で、ナカタは〈ラッシュ〉の準備をする。ボディジェルが日差しに乾き、ぬるいマウスピースを噛む。ドローンの側部ハッチが開き、大量のマイクロボットが大気中に散布される。目に見えない粒子が煌めいて、ナカタとイズミを包み込む。ナカタは歯を強く噛み〈WAY OUT〉を起動する。 環境中での大規模な〈ラッシュ〉の試験運用を兼ねて、第一線のコンテンポラリーダンサーとのセッションをやらないか ― ナカタが〈スラスター〉に送った提案の内容はおおむねそういったものだった。その第一線のコンテンポラリーダンサーとやらが植物状態であったことは予定外だろうが、それを抜きにしても、〈スラスター〉にとって悪い話ではなかったはずだ。
〈WAY OUT〉を使ったニイジマの計画は、〈スラスター〉にも大体見当がついていたはずだった。ニイジマ個人の野望は別として、環境規模での〈ラッシュ〉の運用可能性は〈スラスター〉にとっても関心の対象だったろう。だからナカタへの依頼ははじめから、ニイジマと同様の不全感を抱えた人間に実地試験前の見直しをさせる程度の意味しかなかった。それ自体はもはや、ナカタにとってどうでもいい。
だが、向こうがその気ならナカタにも、それなりの都合を差し挟ませてもらう用意があった。上空のナカタと海面のイズミを含む空間に、マイクロボットが満ちる。
ナカタは〈WAY OUT〉を吹き抜ける。いつもの幹線道路を越え、ビルを超え、山を越える。古い港町があり、その先に海が開ける。波間を抜ける。徐々に日差しが強くなり、海が翠に色づいていく。いくつかの小島と珊瑚礁を抜ける。そのうちの一つから長く、砂嘴が伸びている。流れ出す一条の乳に見える。
海面を滑るイズミは仰向けのまま安定した。長い目尻の縁を水が濡らしている。
ドローンの上で、ナカタの身体は脱力と硬直を繰り返す。伸び上がり、くずおれる。
真っ白な陽光がそのすべてを影として、海面に灼きつける。
ナカタは腕を広げる。現実の両腕を、アバターの両腕を、大気の両腕を。ミクロネシアのむせかえるような高気圧がナカタに合流し、どこまでも膨らんでいく。
ナカタは重心をずらし、ステップを踏む。
広げた両腕が旋回し、その先端が海面を撫でる。
北西の地平線からさざなみが走り、南東へと抜けていく。
イズミの身体に波がかぶり、ぐるりとターンする。
水飛沫。
風にさらわれる。
ナカタは吹き抜ける。
イズミが息を吸う。
ナカタは痙攣する。
イズミが息を吐く。
さざなみが立つ。
イズミがターンする。
雲がイズミの顔に影を落とす。
陽光がナカタに反射する。
イズミがターンする。
海面が蒸発する。
イズミがターンする。
ナカタが蒸発する。
水蒸気がマイクロボットを包む。
イズミが沈む。
ナカタがマイクロボットを包む。
イズミが跳ねる。
マイクロボットが海へと溶ける。
イズミがターンする。
マイクロボットがナカタへと溶ける。
風がやってくる。
風が過ぎていく。
風がナカタの頬を撫でる。
ナカタがナカタの頬を撫でる。
風がイズミの頬を撫でる。
ナカタがイズミの頬を撫でる。

〈WAY OUT〉のリリースから六千万年が経つ。
人類の次に繁栄した群知能型の齧歯類たちは大規模な氷河期によって絶滅する。
その次に繁栄したプラスティックを主食とする軟体動物たちは資源の枯渇によって絶滅する。
その次に繁栄した二足歩行の鳥類たちもまた、五十年前の破局噴火によって激減し、ちょうど昨日、最後の一匹が息を引き取った。
分厚い雲は火山灰を孕んで緩慢に流れ、クリーム色の雷を腹の中で転がしている。
雨が落ちる寸前の海は鏡のように凪いでいる。
その只中に、小さな渦が起こる。
渦は消えては生まれ、生まれては消えながら、徐々に数を増やしていく。
やがて風が水面を撫でると、それらの一切は消え、雲から雨粒が落ち始める。
火山灰の混じった雨粒は乳の色をしている。
それは海面にぶつかるその瞬間まで、世界のすべてを映している。