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あなたは科学に何を期待してきたでしょう? 震災以降、社会に生まれた科学者への不満や期待と、科学者の側の切実な思いとをぶつけ合い、議論しました。科学が力を存分に発揮できる社会にするために、今、私たちが抱える課題と解決方法を探ります。
(このサイトでは、当日の講演とディスカッションをダイジェストでまとめています。イベント全編はYouTubeでご覧ください。)

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2|「公共哲学と私たちの選択」小林正弥
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エネルギー問題のように、社会全体に関わる大きく複雑な問題は、どんな考え方をベースに判断していけばいいのでしょう。「正義」「熟議民主主義」など重要なキーワードをおさえながら、公共哲学の観点からお話しいただきます。(YouTube 0:42:45~1:08:00)

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哲学はエネルギー問題にどうかかわるか

 今日は「エネルギー問題と哲学」ということで、哲学的な観点から原発をはじめとするエネルギー問題を考えてみよう思います。
 初めに、哲学という分野は科学とどういう関係にあるのでしょうか。科学技術は価値中立的で、世の中の価値観とは別に発展するものだ、というイメージが強いかもしれませんが、実際はそうではありません。科学は時代の価値観や世界観に左右されます。つまり、どういう科学技術が進展するかは、そのときどきの人々の考え方や政治によって変わるのです。エネルギーに関する科学技術でいうと、かつて私たちは原発を選択しましたが、もし別のエネルギーを選択していれば、別の未来があったということです。このように、歴史的な経路によって変化が生じることを「経路依存性」といいます。 飯田先生のお話にも、ヨーロッパでは自然エネルギーを増加させるという選択が過去にあったから、現在では自然エネルギーの技術が進んでいるという例がありましたね。このように、私はエネルギーの問題に関しても、科学と価値という観点から考える必要があると思います。


3つの「正義」

 次に、エネルギー問題を検討するための「正義」の考え方について紹介しましょう。大きくいうと3つあります。1つは「功利主義」。一人ひとりの喜びや苦しみを合計し、幸福が結果的に最大となる方策を選ぼうという考え方です。2つ目は、自由や権利を強調する考え方で、2つに分かれています。第一は自己の所有権を重視する「リバタリアニズム」。経済的自由を強調し、結果として規制緩和や自由化、民営化を重視します。1980年代ごろからアメリカや日本で非常に勢いを得て、中曽根政権、そして小泉政権でピークに達しました。これに対して、同じように自由を強調しながらも所有権を絶対化することに反対して福祉を重視する考え方が「リベラリズム」。課税を行い、所得の再配分を行うことが正当であると考えます。

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 これに対してサンデルや私が主張しているのが「コミュニタリアリズム」とよばれるもので、善き生(倫理性や精神性)や共(共通性)、つまり「共にある」ということを重視する考え方です。このように、それぞれ異なる考え方をベースに、何が正しいか(正義か)を判断するのです。

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時空間を拡大して考える

 今、正義という観点を紹介しましたが、仮に今、全員一致で正義はどちら、不正義はどちらと決定できれば問題はありません。しかしそうでない場合、例えばまさに原発問題のように、人々が合意していない問題を民主的にどうやって決定するかを考える必要があります。それを私は哲学的な「熟議民主主義」で説明したいと思います。
 その際に皆さんに考えてほしいのは、「公共」という言葉です。この言葉は10年ほど前から非常に重要になっており、サンデルも私も「公共哲学」という考え方を強調しています。「人々に広く共有されて行動の指針となる考え方」「何らかのあるべき公共性を実現することを目指すもの」という意味です。国家や官僚といった意味の「公」ではなく、人々が水平的に議論してつくっていく「公共」。この公の概念と公共の概念を区別するべきではないかと私は主張してきました。
 また公共哲学では「理想主義的現実主義」という考え方を強調します。多くの議論は「理想はこうあるべき」という理想論と、「現実はこうなんだ」という現実論とが二項対立であることが多いですが、それに対して、「現実の中でどう理想を実現していくか」を考えていこうというものです。現在の原発問題でも、推進派と反対派の対立構造がありますが、311以後の現実を踏まえて、この二項対立を越えていく方法があり得るのではないかと考えます。
 昨年の政権交代後にいわれている「新しい公共」は、私たちがいう「公共」とほぼ同じなのですが、この公共を新しい次元でどう実現していくか。ここで重要なのは、これまでのように日本という国民国家のなかだけでなく、グローバルに考えること、また同時にローカルな価値の重要性も視野に入れることです。また現在の世代のことだけでなく、過去の世代、将来の世代のことも含めて考えるべきです。つまり公共とは、時空間の拡大のもとで考える必要があるということです。何世代にも渡る核廃棄物の問題、また汚染水の放出といった地球規模での公害問題を含む原発問題は、まさにこういった公共の観点から考える必要のある問題なんですね。

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専門家に任せない決定プロセス

 従来は科学者や技術者の判断でよかったことに対して、今、人文・社会科学的または哲学的な観点から考えることが必要になっています。以前は科学の専門家にまかせればすべてOKというイメージがありましたが、生命倫理や原発など、現代の社会にはリスクの大きな問題が現れており、専門家の間でも決着がつかないことがあります。そうなると人々はどちらを信用したらいいかを考えざるを得ない。そこで専門家だけに任せるのでなく、多くの人が関わるかたちで決定していくことが必要になります。人々が考えるプロセスが必要なのです。それを「熟議」といいます。
 これはヨーロッパでは先駆的に行われており、「コンセンサス会議」がその一つです。まず専門家を呼び、ある問題に対する賛成派と反対派、それぞれに論拠を提示してもらう。その後、一般の市民が議論する。その結果を公表し、より多くの人々の決定に生かしてもらう。こうしたアプローチは今後、民主主義の質を高めていくために必要ではないかと考えられています。

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 さらに私はこの熟議のなかに哲学的な考え方も入れていくべきだと思っているのです。そこで、これを「哲学的熟議民主主義」と呼びたいと思います。では、エネルギー問題を熟議民主主義で考えると、問いはどういうものになるでしょうか。「電力は原発に依存しなくても他で足りるかもしれないし、コスト面でも原発は安くない」ということなら問題はありません。危険性を考えれば、誰でも「脱原発」を支持すると思います。しかし仮に、「原発がなければ電力量が不足し、かつ経済的・コスト的にも原発のほうが他の発電方式よりも安い」と仮定しましょう。この場合、原発を推進するのは正しいのでしょうか。もしまた事故が起きれば多くの人が家を失います。一億人の便利のために、原発の近隣に住む10万人に犠牲を強いるようなことが、現代の民主主義国家で許されてもいいのでしょうか。ここに現れるのが、正義の問題です。まさに道徳的ジレンマです。
 ここには、現在の核分裂エネルギーの根本的問題があります。他のエネルギーに比べて格段に危険が大きいこと、その危険は国や地球全体へも及ぶ可能性があること、そして核廃棄物の抜本的処理方法がないこと。これは将来世代の問題ですよね。先ほど公共性の時空間的展開といいましたが、現世代で仮に問題が生じなくても、将来世代に大きな問題になるかもしれないものです。このようなエネルギーに依存することが果たして正義にかなうのか、という問題は避けて通れません。その意味でこれは、哲学的に大きな議論のポイントを含んでいます。


電力は公共的なものである

 ではここで、先に挙げた3つの観点(3つの正義論)と、原発問題との対応を紹介しましょう。功利主義の観点では、経済成長が人々の幸福につながることになるのですが、「この功利主義的計算により、安全対策のコストを少なくするためにリスクを犯していたのではないか」という問題があります。また、原発を残すとしても、どのように運営するかも大問題ですよね。電力会社と通産省や保安院などとの癒着というのは、日本の戦後政治の問題です。つまり、官庁と業界団体と学者との癒着構造が政策をゆがめてきたのではないかと考えると、このスキームを議論する必要がでてきます。公と私という観点から根本的に電力会社の存在を考え直して、全面的に自由化すべきではないか、ということです。これはリバタリアニズムの考え方です。電力が安くなることが期待できますし、送発電分離などのように自由化をして癒着を解消すれば、自然エネルギーの企業の参入などによい効果が期待できます。
 他方、全部が自由になると、コストを考えて安全性が無視されるという危険性があるでしょう。また、石油などの安いエネルギーの比重が増えてしまうかもしれません。そこで、 私は“電力は根本的に公共的なものである”という観点からこの問題を考えるべきだと思っています。NHKと民放のような、放送における二元的体制のように、電力も今後、自由化したうえで、民間電力と公共電力(送電網、過渡期の原発、新エネルギー開発など)というような二元的体制をつくり、公共性も確保できるような運営体制を考えたらどうかと考えています。

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自分で考え、自分で選ぶ時代

 原発がすべて不正義であるとまでいえるかどうかは議論の余地がありますが、少なくとも従来の原発運営体制は不正義であったといわざるをえません。これからは友愛と正義にかなうエネルギーの体制を考えていく必要があります。いくつかの選択肢がありますが、理想主義的現実主義の立場では、段階的脱原発、ないし減原発によって、自然エネルギーないし新エネルギーに移行させていくことが望ましいと思います。まだすぐに決断できないのなら、広範な国民的熟議をしっかりとやることが必要です。そして、いずれにせよ電力体制の大転換が急務だと思います。こうしたことが、今後の新しい社会のビジョンにつながっていくのではないでしょうか。
 私は「エコロジカルセルフ」という言葉を使っているのですが、自己は環境の中に存在しているという自覚が必要なのです。しかもそれをエネルギーの面にも及ぼしていく。コミュニティのあり方をエコロジカルな観点から考え直す。それはエネルギー分散型のあり方、地域コミュニティの電力体制の問題につながっていきます。
また私もサンデルも「共和主義」という考え方を強調しているのですが、これは「自己統治」「自治」を強調するものです。電力はこれまでは、どこか遠くで一括してつくられたものを買う、というものでした。しかし、自己統治をエネルギーについても考えること、つまり、電力をどうつくり、どう利用するかを一人一人が考える時代が到来したのです。太陽パネルを自分の家に設置するというのは、自己統治の端的な例ですね。あるいは複数の電力会社の中から、それぞれの電力供給方法を見て選択する。その際、私たちは公共的な善を考えることが可能です。もし高くても自然エネルギーを購入するなら、それjはエネルギーの公共的美徳であると私は思うのです。

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小林正弥
千葉大学大学院人文社会科学研究科教授
1963年生まれ。東京大学法学部卒。同大学助手などを経て2003年より現職。専門は政治哲学、公共哲学。平和、環境、福祉などの問題に焦点をあて、公共的な問題について研究を行っている。ハーバード大学マイケル・サンデル教授の紹介者としても知られ、NHK「ハーバード白熱教室」では解説者を務める。

【関連リンク】
小林正弥研究室HP

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