“科学”とひとくちに言っても、すでに確立して揺るぎないニュートンの法則から、異論続出の最先端仮説まで、そのありようはさまざまです。だから、私たちと科学の関係や、私たちと科学をつなぐものの姿も、なかなかとらえどころがなく、一筋縄では行きません。そんな混沌を少しでも見通し良くするために、科学とは何なのか、科学の鏡を社会に向けるとどう映るのか、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

« 第1回 がんばれ井川! | メイン | #03-1:茂木健一郎(脳科学者) »

第2回 科学の探針

2007年11月20日

お久しぶりでございます。ぼくは、昔から日記は完全な三日坊主で、およそブログという形式は不向きだし、やろうと思ったことも一度もなかったのだけれど、このコーナーもやっぱり更新の間隔がものすごーく空いてしまいました。読者のみなさんにもdeep _scienceのみなさんにも大変申し訳ない限りです。でも、そもそも向いていないんです、ほんとに……。

だったら引き受けるな、と。まったくそのとおりです。このままではではあまりに無責任なので、次回から対談コーナーとすることにしました。ブログは興味ないけど、人と話をするのは好きだから、これなら続くだろうという、「災い転じて福と成す」作戦です。我ながら、よく考えたものだと自画自賛。
さて、では、どういう人たちと、どういうテーマで対談を続けていくのか? レポートを書きましたのでご一読ください。

*      *      *

科学を文化に──他ならぬ日本科学未来館の目標のひとつ。最近は科学カフェなどでも、よく見かけるようになったフレーズだ。第3期「科学技術基本計画」にも、文化的価値を創出する科学が必要、と書かれている。
このモットーが日本に登場するのは、昨日今日のことではない。明治日本のオピニオンリーダーとして活躍した福澤諭吉は、近代国家の基礎には科学的合理主義があると喝破し、日本社会にも科学を根づかせる必要があると主張した。つまり、「科学を文化に」(あるいは「文化に科学を」)と唱えていたのである。この理念にもとづいて福澤は、著作活動のかなり初期段階で、自然科学の啓蒙書『訓蒙 窮理図解』(1868[明治元]年)を出版した。
明治以降、さまざまな紆余曲折を経ながら、日本は曲がりなりにも近代国家の建設と発展に成功した。ということは、福澤の分析が正しいとすれば、「科学を文化に」というモティーフは、近代日本における科学技術の通奏低音として響き続けてきたはずだ。現在の「科学を文化に」ブームは、その結晶化ととらえることもできるだろう(本筋とは関係のない予想だが、過去にも何度か、「科学を文化に」という感じのキャンペーンがあったのではないだろうか。検証は宿題とさせていただきたい)。

さて、はたして今の日本で、科学は文化システムの一部にしっかりと根づいているのだろうか。「科学を文化に!」というキャッチフレーズがこれだけ頻発しているところをみると、まだまだだと考えている人が多いのだと思われる(ちなみに、"科学を文化に" で Google すると、735件がひっかかる[2007年11月13日])。
これは、結構不思議だ。巷には科学技術があふれかえっているじゃないか。街では誰もがケータイでメールを打ちながら、さもなくば音楽を聴きながら歩いている。歩道の脇にはやたらと自動販売機が並んでいる。こんなにも科学技術が根づいている国は、ほかにないのではないか?
けれども、これらの事柄をもって「科学技術も日本の文化に深く根づいている!」と喜んでいる人たちは、ぼくの知る限りいない。むしろ逆で、「文化になっていいないからダメなのだ」という論調の方が、はるかに目立つ。
いったい、どういう基準を満たせば、「よし、日本にも科学技術が文化システムに根づいたぞ」と判断されるのだろうか? おそらく、先ほどあげたような実利的な、道具のレベルで科学技術が蔓延したり普及したりするだけではだめなのだ。いくら街が自動販売機とケータイで満ちあふれたとしても、それは単に科学技術の「成果」がたくさんあるというだけのことだ。大事なのは、それらを生み出した科学技術の方法論や合理的・論理的思考様式などが、社会のメンバーに共有されるているかどうか、だろう。結果ではなくプロセスが根づいているかどうかが判断の分かれ目だ。
しかし、だとすると、これを測定するのは難しい。道行く人をつかまえて、片っ端から聞いて回るなんてことはできないし。そもそも、何を聞けばいいのかも定かではない。その人の職業や立場などによって、必要とされる科学的思考も方法論も異なるからだ。それぞれに合ったかたちでの科学の根づき方を探らなければならない。
そんなこと、やってられるか!

もっとも、代わりにこういう方法なら現状を近似的に探ることができるのではないかと思う。科学や技術の専門家ではなく、しかし、時代の風潮や空気に鋭敏な感性をもった、その道のプロの人たちが、科学技術についてどのようなイメージや認識をもっているかを、丹念に聞いていくのだ。時代に敏感な人たちであれば、時代における科学技術のあり方も、当然反映していることと思う。彼ら彼女らの語る「科学技術」が、今の日本社会における科学技術の「文化度」の第一近似であるとしても、そう大きくはずれたことにはなるまい。科学の知識というよりも、科学的感性がどれぐらい共有されているかを探る、という感じである。
地面の下や、海の中など、見えないところに目指すものがあるかどうかを探るには、センサーのついた針を深くおろす必要がある。探針である。日本の文化システムにおける科学技術のあり方を、探針する──それが、次回以降の対談シリーズの狙いだ。
問題は、2つ。どうやって人選するか。そして、どうやって聞き出すか。まずはそこから探針したい。

*      *      *

どうです? 「雨降って地固まる」だと思いませんか(使い方が違う)。とりあえず次回は、「誰と対談すべきか」を人選する対談を、行う予定です。
乞うご期待。

.

2006 (C) NATIONAL MUSEUM OF EMERGING SCIENCE AND INNOVATION