タイの首都バンコクは長年ひどい交通渋滞に苦しめられています。経済損失や地球温暖化の原因ともなっている渋滞をどうしたら減らせるでしょうか。
 不快な移動をいかに快適なものにするのかという視点で、この問題に挑んでいる研究者たちの取り組みを紹介します。国連の持続可能な開発目標(SDGs)の目標11「住み続けられるまちづくりを」に着目して取材しました。SDGsの理念である「誰一人取り残さない」につながる取り組みです。

(科学コミュニケーター松島聡子)

目的地到着時刻は予測不能!?

バンコクの交通渋滞、スクンビット通りと交差するアソーク通りを撮影(写真提供:SATREPS)

 都市圏人口1600万人にもおよぶ世界有数の大都市バンコク。その中心部を東西に走るスクンビット通りは大型ショッピングモールや高層オフィスビルが立ち並ぶ、東京でいえば新宿のようなエリアだ。片側5車線の広い通りにもかかわらず、一日中見わたすかぎりの車やバイクがひしめいている。
 この渋滞がバンコクの人々から時間を奪っている。

 「もし渋滞がなければ1時間もかからないところなのに、2~3時間かかることもあります。到着時間の予想を立てるのがとても難しいので、ショッピングに行っても友達と待ち合わせをすることができません」タイ出身で中部大学持続発展・スマートシティ国際研究センター博士課程1年生のアチャリヤヴィリヤ・ウィットサルートさんはこう話す。
 中心部のオフィスや学校に通う人々は、遅刻をしないために朝5時前に家を出発する人も少なくないそうだ。

 バンコクで渋滞が問題になり始めたのは今から40年ほど前。高度経済成長にともない豊かになった人々は、タイ政府にも後押しされてマイカーをきそって所有するようなり、渋滞は深刻さを増してきた。
 タイの人々も何もせずにただ傍観してきたわけではない。スクンビット通り沿いにも高架鉄道や地下鉄が走るなど公共交通は整備されてきたが、未だ市内のあちこちで慢性的な渋滞が発生している。

 タイの経済研究所によると、こうした交通渋滞によって人の往来や物流が阻害されることによって、タイ経済全体では年間1600億円もの経済的損失をもたらしているという。また、渋滞によって1日当たり1億5000万円分もの燃料がむだになっており、大気汚染だけでなく、地球温暖化も加速させている。

情報技術で交通渋滞を解消するには

 科学技術振興機構(JST)や国際協力機構(JICA)などが共同で実施している研究プロジェクト「地球規模課題対応国際科学技術協力プログラム(SATREPS)」では、中部大学持続発展・スマートシティ国際研究センター長の林良嗣教授らが2018年からバンコクの渋滞解消に取り組んでいる。

 解決策を探るためにまず取り組んでいるのが、デジタル空間に渋滞を再現することだ。 プロジェクトチームの中部大学国際GISセンター長の福井弘道教授は「3次元の実空間をデジタル空間にコピーすることができれば渋滞の特性や要因をつかむことができ、デジタル空間の中でシミュレーションをすることで有効な解決策を探ることができるのです」と話す。

 道路や建物、リアルタイムに変化する車や人の流れをデジタル空間に作り上げるために、様々なセンサーを使って実空間のデータを集めている。360度カメラを搭載した車を走らせることで得られた画像データは、画像認識技術でほぼ100%正確に看板や標識、横断歩道を選び出すことができているという。

 デジタル空間で渋滞が再現できると応用の幅は広がる。スマートフォンなどで使うアプリケーションの実用化だ。留学生のウィットサルートさんは、現在プロジェクトで思い描いている、ユーザーに目的地までの快適な移動方法を提案してくれるアプリについて話してくれた。
 「例えば、朝起きて1日のスケジュールをアプリに伝えます。そうするとアプリは何時に出発して何に乗ればいいのか、あなたにとって快適なプランを提案してくれます。提案されたプランは、デジタル空間でスムーズな交通となるように人々が移動を開始する時刻を制御しているため、渋滞を抑制し環境への負荷も低いものになるはずです」

 ただし、バンコクならではの課題として、2km四方くらいの街区の中のソイと呼ばれる路地が多数存在する。幹線道路から無数に枝分かれするソイは、行き止まりになっていることが多く、一度車両が入り込むとUターンをしてこなければならない。これが交通の流れを悪くして、渋滞の一因となっていると考えられている。

 そこでプロジェクトでは、1~2人乗りの小型モビリティの普及も同時に目指している。「バンコクを走る車の多くは、4~5人乗りの自動車であるにも関わらず、実際に乗っている人数は1人か2人です。車のサイズを減少させることができれば渋滞は解消の方向に進むでしょう」と林教授は話す。

人々のハピネス実現に向けて ~no one will be left behind

交通の場面を見ながら顔認証カメラで表情のデータを取得

 ソフトやハードで渋滞を解消するだけではない。プロジェクトが重視するのは、すべての人々にとっての「移動の快適さ」だ。通常このようなプロジェクトの評価をする際には、"通勤時間が減った分の労働時間が増加することによって、どれほどの経済効果を生むか"という分析が行われる。しかし、林教授は働いている人・働いていない人のどちらにとっても価値のある評価でなければならないという想いから、「移動のQOL」という概念を提唱している。日本ではQOL(生活の質)というと、医療や福祉の場で使われることが多いが、男女、老若、所得などの属性の異なる個々人の移動にともなう幸福感や充足感、快適さなどを定量化しようという試みだ。

 ただし快適さの基準は、人それぞれ、その時々によって変わってくる。例えば、時間がかからないこと、お金がかからないこと、景観が美しいこと、安全性が高いこと、乗り物を降りてから歩く距離、空調が快適であること、移動中の揺れが少ないことなどが挙げられる。ウィットサルートさんは「難しいのは、快適さ、QOLという人によって異なる感覚を、どのように測るのかということです」という。

 そこでプロジェクトでは、「移動のQOL」を評価する方法を開発中だ。様々な交通の場面を撮影した動画を一般の人に見てもらい、快適さについて1~5点の評価をつけてもらう。同時に、顔認証カメラで表情のデータ、スマートウォッチから脈拍のデータを取得する。これらのデータをAIに学習させることで、AIはこの場面で人は不快な表情をする・ストレスを感じた脈拍となるということを判断できるようになるという。

 林教授は「誰一人取り残さない、というのはSDGsの最も重要な特徴です。様々な属性の個人の「移動のQOL」を評価することによって、私たちはちゃんと誰一人取り残すことなく幸福になれているのかどうかを確認することができます」と強調する。

 その実現のため、プロジェクトは、交通や人工知能など多様な分野の研究者に加えて、地元の行政機関や鉄道・タクシー会社など大勢の人を巻き込んで進められている。2023年に現地政府への提言としてまとめる予定だ。

(2020年1月22日)

インタビュー

アチャリヤヴィリヤ・ウィットサルートさん

 中部大学持続発展・スマートシティ国際研究センター長の林良嗣教授の下、快適な移動の評価方法について調査をしている、タイからの留学生ウィットサルートさんに話を聞きました。

ウィットサルートさん

松島 ウィットサルートさんはバンコクのタマサート大学で修士課程を学んだとのことですが、出身はどちらですか?
ウィットサルートさん チェンマイです。バンコクから北へ700kmほど、人口25万人のタイでも比較的大きな都市ですが、周りは山に囲まれていて美しい自然にあふれています。

松島 チェンマイの交通はどのような状況ですか?
ウィットサルートさん チェンマイは公共の交通機関がほとんどなく、完全に車依存の社会です。とはいえ、バンコクはケタ違いに人口が多いので、それに比べればチェンマイの渋滞は今のところそんなに酷くありません。

松島 バンコクの渋滞はどれくらいひどいのでしょうか?
ウィットサルートさん とても深刻です。毎日人々は渋滞によって多くの時間を失っています。例えば健康面では精神的・肉体的な影響を受けます。仕事面ではビジネスマンや学生アルバイトが経済活動をする妨げになります。生活面では大切な家族活動の時間を奪います。環境の面でも大気汚染や騒音被害、エネルギーの無駄遣いにつながるなど、渋滞による悪影響は多大です。日本に来てから、東京・大阪・名古屋など大都市を訪れましたが、どの都市の中心街でも交通渋滞がみられないことに驚きました。

「社会にインパクトがある研究をしたい!」

林良嗣教授(左)とウィットサルートさん(右)のディスカッション風景

松島 現在、ウィットサルートさんはバンコクの渋滞解消をめざした研究に取り組んでいますが、この分野に、どうして興味を持ったのですか?
ウィットサルートさん タイの大学では、情報通信技術を使ってデジタル地図を作る研究をしていました。修士課程を修了した後も、自分の研究を継続しながら、社会にインパクトのある研究をしたいと考えていたところ、林先生と出会いました。明らかにタイの交通渋滞は、社会に多大な悪影響を及ぼす深刻な課題です。交通渋滞を解消し人々に快適さをもたらすという林先生の研究にとても興味を持ち、彼の下で博士研究に取り組むことに決めました。

松島 日本での生活で学んだことはありますか?
ウィットサルートさん 日本は既に素晴らしい規則や環境にやさしい社会づくりを行っていると思います。さらに、一人一人が環境保護や資源を使う責任に目を向けることができれば、それは世界を救うことに繋がります。例えば、エネルギーの使用や温室効果ガスの排出を削減すること、ゴミの分別をすることが大事です。

「快適な移動を実現するためにスマート交通分野の研究をけん引できる存在になりたい」

松島 中部大学で博士課程を終えた後はどうされる予定ですか?
ウィットサルートさん タイに戻って、人々の生活をより豊かにするためのスマート交通の研究を継続し、教授になりたいと考えています。持続可能な発展のためにはスマートシティやスマート交通の取り組みは不可欠なものになってきています。さらに、QOLを考慮した社会づくりは今後世界中のトレンドになると信じています。

企画・ファシリテーション

取材後記

科学コミュニケーター松島聡子

 私は普段「時間が足りない!」と思うことが多くあります。仕事中・友人と遊んでいる途中・家族と過ごしている時・睡眠の前後など様々です。渋滞の解消によって、低炭素社会を目指すことや経済的損失を少なくすることももちろん大事ですが、人々の生活をより豊かにするということに着目して、人それぞれのQOLを評価しようと試みているのが、このプロジェクトのユニークさであり魅力だと感じました。
 SDGsの理念である「誰一人取り残さない-No one will be left behind」は私の一番好きなSDGsの側面です。今回、実際に取り組んでいる方々に取材をしていると、みんながハッピーな明るい未来を描くことができる様な気がして、私も力がみなぎってきました。今後このプロジェクトがどのような方法で渋滞を解消し、「移動のQOL」をアップさせることになるのか、これからの行方がとても楽しみです。
 今回、お忙しい中取材にご協力いただいた皆様に心より感謝申し上げます。