“科学”とひとくちに言っても、すでに確立して揺るぎないニュートンの法則から、異論続出の最先端仮説まで、そのありようはさまざまです。だから、私たちと科学の関係や、私たちと科学をつなぐものの姿も、なかなかとらえどころがなく、一筋縄では行きません。そんな混沌を少しでも見通し良くするために、科学とは何なのか、科学の鏡を社会に向けるとどう映るのか、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

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#10-2:堀江敏幸(小説家)

2010年3月 5日

余白をとりこんで科学を語るということ(後半)


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本来、科学が目指すのは、数値や数式による客観的で普遍性のある記述。しかし二人は、一般の人に向けた科学の語り方として、別の選択肢を模索する。またそれは、サルや人間など生物を相手にした研究方法の問い直しにも通じるものがありそうだ。 言葉は科学研究の世界と社会をつなぐインターフェイス。こうして両者に橋を架けることで生まれるものとは何だろう? (撮影=邑口京一郎)

ほりえ・としゆき
1964年生まれ。早稲田大学文化構想学部教授。早稲田大学第一文学部、東京大学大学院修了。2001年『熊の敷石』で芥川賞受賞。小説、評論、紀行などが交じり合う独特の文章の書き手として知られる

観察する人の経験が、観察を左右する
佐倉

僕は大学院でチンパンジーの研究をしていたんですが、当時、まだ日本のサル学第一世代の人たちが現役で活躍していました。サルを個別に識別して擬人化しながら、サルの社会や文化を解明していた世代で、彼らは「ボスのタロベイが誰々とケンカした」だの、それこそ「ネズミは温泉が好き」的な話をよく書いていた。僕らはそれに対して、「もう『シートン動物記』じゃないんだから」とか、「おれらはもっと『科学』をやろうぜ」みたいなことばかり言ってたんです。でも考えてみれば、サルの行動を理解しようとするなら、「お湯につかって気持ちよさそうにしている」というところが出発点なんですよね。

堀江

そういうときにサルのことが一番よく理解できる気がします。

佐倉

そうなんです。もちろんそのときの血圧や心拍を測るなりして、その気持ちよさをできるだけ客観的に探っていくのが科学なんですが、この出発点を否定して、客観的なデータだけで進めても、動物の行動や生態は僕らが腑(ふ)に落ちるようなかたちで理解できない。そしてそれはやっぱり、「科学」にもならないと思うんです。動物行動学のなかでも擬人主義はどこまで許されるかなど、これまでずいぶん試行錯誤されてきていて、かつては擬人主義は「非科学的である」と全面否定だったんですね。だけど、今はサルと人間とで中枢神経系が似ているということがわかってきた。そうであれば、脳の機能や働きも似ている部分があるということで、彼らの行動を理解するためにはある程度は擬人的な記述が必要であるとか、僕たちが直感的に理解する動物の行動や心理の世界をどういうふうに科学の対象にしていくかというほうに、関心は向いてきていますね。

堀江

今のお話を聞いて思ったんですが、僕は岐阜県の出身で、子どものころ、よく犬山のモンキーセンターのサルを見に行っていたんです。でも、いま見たら、まったくちがう印象を受けるだろうと思いますね。子どものころは、子を抱いている親ザルの気持ちなんてよくわからなかったはずですし。たとえば、研究者が結婚して子供ができたとします。すると、独身で、親でもなかった時代に見えていなかったものが見えてくる。サルを理解するときに、サルの側だけでなく、研究する側の経験値というのも、無視できない要素だと思うんです。若いときにしか見えないものがあり、年をとってからじゃないとわからないものもある。それをわけないで、ゆるくつながっているものとして見たとき、新しい何かが見えてくる。幼稚園児にサルを観察させたら、絶対にサル学者が見ていないところに気づくと思うんですね。

佐倉

子どもと大人もそうですが、性別もあります。サル学者は以前はやはり男性が多かったんです。それでオスザルの社会や権力闘争について詳細に研究されてきたんですが、女性の研究者が増えてくると、実はメスの世界もすごく複雑で、むしろメス側が都合のいいオスをサポートすることで、オスの順位が上がることがわかってきたんです。

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堀江

なるほど。

佐倉

それから今では人間の心や脳の働きが科学の対象になっていますが、そこでは「観察対象」と「観察者」が同じ人間なんですよね。だから、両者を客観的に分けられなくなってくる。科学の方法は、デカルト的に対象を分類することから出発しているんだけれど、分野によってはその分けかた自体をもう一度見直す必要があるのかもしれない。さっき堀江さんがおっしゃった観察者の経験値のようなものも積極的にとりこんで理論化していかないと、特に人を対象にした研究は難しいと思うんです。

科学者の仕事、小説家の仕事
佐倉

さて少し小説の話をうかがいたいんですが、僕のなかで小説家とは、「芸術」というより「ものづくり」に近いイメージなんです。科学者が理論や法則を使って外側の世界を解明しているのに対して、小説家は言葉という道具を使って自分の内側に世界を構築している人のように感じています。その際、小説家が意識的、無意識的にどのように言葉を選び、制御して文章をつくっているのか、とても興味があるんです。特に堀江さんの小説を読むと、言葉の選び方がとても繊細で、ガラス細工のようなイメージがあります。それは職人芸のようなもので、ある種の「ものづくり」の技のようにも見えるんですが……。

堀江

ガラス細工って、ちょっと押すと壊れちゃうものですけれどね(笑)。

佐倉

いや、だから美しいんです(笑)。ああいう文体は、ご自分で努力してつくられたものなんですか?

堀江

それはわからないんです。職人というのは、ものづくりの方法を極め、独自のコツを掴んでいて、常に同じものを再現できる人のことですよね。だけど物書きの場合はそうじゃない。むしろ、できあがるものは、そのつど変わってもいいという感覚がある。

佐倉

じゃあそのときどきで、つくりかたが違うんですか。

堀江

そうです。少なくとも、僕には方法論は全然ないんですよ。こういうものを集めると、こういうものができるかもしれない、といった程度の予感はありますが。だから「帰納」はしているかもしれないけれど、少なくとも「演繹」ではない。逆にいうと、演繹のようなこともしているはずなんですが、最初の定理がわからない。何というか、わからないまま順番に調合して合わせていくという感じで……。

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佐倉

調合ですか。

堀江

さっき中和滴定の話をしましたが、あれは、ある溶液の濃度がわからないから、別の溶液をその中に垂らしていって、中和すると色が変わるという実験ですよね。文章って、中和滴定に似てるんです。毎回依頼される原稿の分量——たとえば今日は原稿用紙400字詰めで7枚とか、次は17字×58行とか、容器が変わるわけですが、そこに向かって、その日の体力と体調と言語感覚の範囲内で用意できた最良の溶液を、順番に垂らしていく。いつ、なに色に変わるのかわからないという状況で書くわけです。

佐倉

一滴ずつ垂らしていって、ここだ、というところがあるんですね。

堀江

そうです。色が変わったらそれを作品として出すということです。

佐倉

面白いですねえ。ところでさっき僕にとっての小説家と科学者のイメージを話しましたが、堀江さんは両者の違いをどのように捉えてらっしゃいますか?

堀江

うーん、科学者も最終的には言葉で論文を書くわけですから、どちらも言葉を使うという意味では文系ともいえるんじゃないでしょうか。実験だけですべて理解させるのは理想かもしれませんが、そこにどういう意味があるのかはやっぱり言葉で説明する必要がありますよね。そのとき「数式」ではなく「言葉」を使って、初めて見た人がわかるように説明するというアウトプットの部分は、文学の仕事と同じじゃないでしょうか。それがなければ、人に伝わらないですから。

佐倉

なるほど。確かにこれまで世の中の人々にインパクトを与えた科学の成果は、例えばダーウィンの進化論で言うと「ヒトはサルから進化した」のように、言葉で表現されたものなんですよね。アインシュタインの相対性理論や、古くは地動説などもそうです。その理論に至る過程は数式で表されていても、世の中との接点となる部分は“物語”のようなものであり、逆に言うと、そういうかたちで表現されて初めて世にインパクトを与える。そこを抜きに科学はあり得ないと言う人もいます。すべての科学的成果が日常の言語でうまく表現できるかどうか、ぼくにはわからないので、個人的にはそこまで言い切る自信はないんですが……。でも一般の人たちは科学者たちに、「もっと日常の言葉で表現してくれ」と要求してもいいのかもしれませんね。

ささいなことを輝かせて見せる力
佐倉

文学と科学、文系と理系のつながりや違いについていろいろお話をうかがってきましたが、堀江さんは 『正弦曲線』のなかの、「周期律表」について書かれた一編でこんなことをおっしゃってるんですよね。 「周期律表と分解可能な母国語の文法との類似を指摘してくれる人がいたら、文理のあいだに溝はあっても架けるべき橋はいくつもあるのだということに、もっと早く気づいていたかもしれない」。 堀江さんがご自身の作品のなかで、“文理の架橋”に直接言及されていることに実は驚いたんですが、これは周期律表をどういうふうにご覧になって考えられたことなんでしょうか。

堀江

周期律表って、真ん中あたりが抜けていて、谷のようになっているでしょう。科学者ならきっとこの空白部分に入る物質が何かということを考えるんですよね。でも僕は周期律表を見たときにまず、ああ、きれいな配列だなと。とても均衡がとれていて、モンドリアンの抽象画のようでもあり、一つずつ押すと音が出る鍵盤のようにも見える。音の一つ一つに、分解もできる。組み合わせを変えたら、新しい音が、新しい表現が生まれるんじゃないかと思ったわけです。だから「文理融合」とかいう、大袈裟なことじゃないんですね、本当は。周期律表は文系の人も理系の人も、空想のなかで遊べる地図のようなものなんじゃないかなと。

佐倉

なるほど。堀江さんはそうやって文理の間に橋が架かることによって、世の中にどんないいことがあると思われますか?

堀江

退屈なことがなくなる、ということじゃないでしょうか。最終的なアウトプットのかたちは科学寄りか文学寄りかわかりませんが、両方をつないでなにがしかの言葉にできる人が、その経験を僕らにわかりやすく語ってくれる。そうすれば、少なくともどちらかが無駄だという考え方はなくなると思うんです。そして、身のまわりにあるささいなことが、すべて輝き出す。

佐倉

ちょっと前の科学の成果って、そういった、ささいなことを輝かせる力があったように思うんですよ。たとえばアインシュタインの相対性理論は、いつでもどこでも一定と考えられていた時間の進み方が実は違うという、とんでもないことを明らかにしたわけですよね。だけど今は、そういった科学の魔法のような力に科学者自身が知らず知らずのうちにからめとられて、一般の感覚から遠ざかってしまっているところがあるのかもしれません。だから科学者が一般の人向けに研究の話をすると、ときどき押しつけがましくなったり、“上から目線”になったりすることがある。でも彼らは彼らで「こんなに面白いんだからわかってほしい」とすごく思ってはいるんですね。ただ、一般の人にもわかるような表現で話すのはなかなか難しいし、わかってもらえないことを不満に思ったり、さびしく感じたりしているんです。

堀江

そうでしょうね。

佐倉

だから堀江さんが正弦曲線や周期律表を語られるように、科学を詩的な表現とつなぐことができれば、ささいなことを輝かせて見せる力を、科学はとり戻すことができるかもしれない。イギリスのリチャード・ドーキンス(注5)は、もともとは進化生物学者ですけれども、彼の話があれだけわかりやすいのは、やっぱりメタファーや比喩がうまいんですよね。さっき、科学の成果をアウトプットする部分は文学の仕事と同じだとおっしゃっていましたが、そうやって一般の人に「言葉」で伝えようと努めることは、必要不可欠なことだと思うんです。科学には大きなポテンシャルがあります。政治信条や宗教にかかわらず、共通の事実にもとづいて誰とでも議論できるというのは、科学の強みです。でもこうしたメリットは、まだまだ世の中に生かされてない。だから科学の語り方を工夫して変えていくことで、もう少し世の中と科学とのインターフェースがよくなると、世の中もう少し住みやすくなったり、楽しくなったりするんじゃないかな。

堀江

文学も生かされていないから、同じです(笑)。僕は文学の人も科学の人も、楽しそうに生きていればいいんだと思いますね。温泉につかったネズミのように、あの人は科学の話をしているとき、ほんとに気持ちよさそうだよね、と。

注5:リチャード・ドーキンス

1941年生まれ、イギリスの生物学者。『利己的な遺伝子』『虹の解体』など、一般向きの科学書を多数執筆している


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