“科学”とひとくちに言っても、すでに確立して揺るぎないニュートンの法則から、異論続出の最先端仮説まで、そのありようはさまざまです。だから、私たちと科学の関係や、私たちと科学をつなぐものの姿も、なかなかとらえどころがなく、一筋縄では行きません。そんな混沌を少しでも見通し良くするために、科学とは何なのか、科学の鏡を社会に向けるとどう映るのか、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

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#10-1:堀江敏幸(小説家)

2010年2月22日

余白をとりこんで科学を語るということ(前半)


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数式で自然を記述する科学者。対して、言葉で世界を描く小説家。 事前にもくろみられたそんな区分をするりとかわし、化学から古典まで、世界は堀江敏幸氏のなかで軽々とつながっていた——。 理系的な知と文系的な感覚の両方を視野に、言葉の名手たる小説家とともに模索した、新しい科学の語り方。 (撮影=邑口京一郎)

ほりえ・としゆき
1964年生まれ。早稲田大学文化構想学部教授。早稲田大学第一文学部、東京大学大学院修了。2001年『熊の敷石』で芥川賞受賞。小説、評論、紀行などが交じり合う独特の文章の書き手として知られる

 三角関数を習ったとき、そのなんたるかを理解するより先に、サイン、コサイン、タンジェント、という魔法のような言葉の響きに私はまず魅了された。
 (……) そればかりではない。サインは正弦、コサインは余弦、タンジェントは正接と、いずれも漢字二文字の熟語からなるうつくしい別の顔を持っていたのだ。

「優雅な袋小路——正弦曲線としての生」堀江敏幸(『正弦曲線』中央公論新社 2009年刊)


ああそうか、「もののあはれ」とは・・・
佐倉

堀江さんの小説やエッセイというと、まずその細部まで神経が行き届いていているような繊細な言葉づかいに特色があります。僕は以前から愛読してきたんですが、昨年出された『正弦曲線』というエッセイ集には——そもそもこのタイトルがそうですが——科学に関する話題があちこちにでてきて驚いたんです。これまで堀江さんと科学との関係を連想したことはなかったのですが、実は堀江さんは“ド文系の皮をかぶった隠れ理系マインド”の持ち主だったのではないかと(笑)。

堀江

「正弦曲線」(注1)は、ごく単純に、言葉として美しいと思ったんです。翻訳語なんでしょうけれど、この日本語をつくった人はすごい才能だな、と。

佐倉

これは僕の勝手な思いこみでもありますが、芸術家や詩人に数式をもちだすと、とたんに「詩情がない」なんて言われそうな気がするんです。たとえばイギリスの詩人キーツが、虹の原理を解明したニュートンに対して「虹の詩情を破壊した」と批判したのは有名な話です。だから三角関数をこんなふうに語る文学の方がいるというのは、ちょっと新鮮でした。

堀江

僕の場合、まず言葉に、専門用語にひかれて、それからその意味する概念へと入っていくことが多いんです。たとえば、 「中和滴定」(注2)という用語がありますね。高校の化学の授業で習うものですが、前の時間が古典の授業で、「もののあはれ」なんてことをやっていた。そのあと理科室に移動して、「中和滴定」の説明をしてもらって、実験をする。すると、「ああ、そうか、《もののあはれ》って、中和滴定なんだ」と思ったりするわけです(笑)。

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佐倉

それはどういう意味ですか?

堀江

中和滴定というのは、二つの溶液の中和点を探るということですよね。古典文学の世界で「もののあはれ」といえば、もちろん本居宣長の文芸用語ですが、辞典を見ると、「もののあはれ」とは、「対象客観」を示す「もの」と、「感動主観」を示す「あはれ」の一致するところである云々と書かれている。これはまさに中間点であって、いわば、理と情の滴定なんですよ。

佐倉

面白いですねえ。堀江さんのなかでは古典も化学も、相互に行き来可能な連続体ということでしょうか。

堀江

むしろ、物事には前後の流れがある、ということですね。数学ができるから理系だとか、文系科目の点数がいいから文系だというのと全然違う話で、基本的には、両者にあまり隔てはないと思うんです。ミステリを読むときなどには、理系の知識が役立ちますしね。たとえば、遺伝の法則を知っていると、横溝正史の小説のトリックが理解できる。登場人物の色盲がどう遺伝していくかを、ショウジョウバエの遺伝の図とあわせて見て、なるほどこいつが犯人だ! みたいなね(笑)。でもそういう遊びの感覚は、普通だと思うんです。

佐倉

横溝正史とショウジョウバエの遺伝子図……(笑)。いや、でも、本来は文系も理系も根っこの部分は同じで、つながっているはずなんですよね。だから科学者も文系の研究者も、そういうものの見方を強調したほうが面白いんじゃないかといつも思いますし、つなげるためのネタはどこにでもある、ってことですよね。

堀江

ただし、つなげようという意識があると、つながらない。僕に言えるのは、いろいろなものを受けとっているうちに、何かがつながる瞬間が訪れるだろう、ということだけです。よく学生のなかに、通り一遍の調べものをして、「これとこれをこうすると、こうつながる」といった三題噺のようなレポートを書いてくる人がいるんですけど、そうじゃないんですね。それは面白くない。もっと言えば、正しくない(笑)。何だかよくわからないうちに、ふとつながっちゃう、というほうが好きで、そういう文章を僕は「散文」と呼んでいます。散っている文章。バラバラに散って、中心がない。科学者の書くものにも、そういう意味での「散文」はあるんじゃないでしょうか。。

佐倉

寺田寅彦や中谷宇吉郎(注3)はそうですね。

堀江

ええ、彼らも専門である科学を何かにつなげようという意志はあるんでしょうが、なかには知らないうちにつながったような文章もある。そういうのが、面白いと思うんです。

注1:正弦曲線

サインカーブ。サインの関数をグラフで表したときのなだらかな波形


注2:中和滴定

濃度がすでにわかっている溶液を試料溶液に落としていき、中和指示薬の変色などにより中和点を知り、そこから試料溶液の濃度を計算で求める方法


注3:寺田寅彦(1878-1935)、中谷宇吉郎(1900-1962)

ともに物理学者でありながら優れた随筆を多く残している

余白も含めた全体が「科学」である
堀江

たとえばこの間、中谷宇吉郎の「鼠の湯治」(注4)という短いテキストを大学の授業で読んだんです。温泉が外傷の治癒にどれだけ効能があるのかを、ある研究者がネズミを使って実験するという話で、データの解析に悩んだその研究者が、語り手である中谷宇吉郎に相談してくる。で、あいだを飛ばすと、解析法にはめどがたって、そのあとこの実験のために、ネズミたちは温泉に連れて行かれるんですね。助手たちが200匹ぐらいのネズミをかごに入れて運び、実験のための傷をつけて、順番に温泉につからせる。ところがデータとはべつに出た結論は、ネズミは温泉が好きである、ということなんです(笑)。みんな目をつぶって気持ちよさそうにしているというんですよ。

佐倉

そういう部分が面白いんですよね。研究のなかの余白の部分というか。

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堀江

ええ、そういうところまで含めたのが、中谷さんの文章なんです。ネズミを運んでいくところ、温泉につからせるところ、ネズミののんびりした顔つき……こういう、実験の前後の、数字には残らない文脈も大切だと思うんです。温泉の効能を調べるという本来の話とはまったく関係がない。だけど、ネズミが気持ちよさそうにしているという箇所があるかないかで、この文章の艶(つや)が違ってくる。

佐倉

実験の手法やデータだけでなく、そういうことも含めた全体が「科学」だと僕は思うんです。ただ、遺伝子解読など最近の生命科学の一部には、実験をやればやるほど遺伝子の配列が明らかになるという、つまりかけた時間と労力に比例して結果を得られるような分野があります。院生たちが昼夜交代制でデータをとって、どんどん論文を書く。「枚挙主義」というんですが、本当に前後の文脈など何もない実験のみの世界です。でも僕はやはり、中谷宇吉郎が描いたような余白の部分もとりこんで、その全体を見せることができて初めて、本当の科学の営みといえるんじゃないかと思います。

堀江

いろんな要素がつながったときに、はじめて面白さが現れるんですよね。中谷さん一人ではこの文章は生まれなかった。中谷さんに話をもちかけた研究者がいて、助手がいて、ネズミがいて、もっと言うとこの文章を雑誌に載せた編集者がいたから、今僕が読むことができる。そう考えていくと、やっぱりいろんなことがつながっていて、それら一つ一つをいとおしみたいという気持ちになります。だから、文とか理とかの線引きの必要はないということです。それは全体のなかの一部、流れのなかの一部だと思えばいいわけで、どっちの側から見ても励みになるようなものの視点があるはずなんです。

注4:「鼠の湯治」

『中谷宇吉郎集〈第二巻〉雪の研究』(岩波書店)に所収


ノイズのない音は、音ではない?
佐倉

「実験の前後の文脈を入れる」という話に関して言うと、理科系の知識と文科系の知識のありかたを比べたときに——文系理系とあえてわけて話しますが、科学的な知識とは本来、文脈からフリーなかたちを目指しています。ニュートンの万有引力の法則が日本でもアメリカでも普遍的に成り立つものであるように、科学の理想は普遍性の追求にあるんです。するとさっきのネズミの顔つきのような話は、科学の知識体系からはむしろノイズとして排除されるものなんですね。ただ、そうして普遍的な部分だけが残ると、一般の人にとってはある意味、科学のつまらない部分ばかりが伝承されているといえなくもない。初めてその実験をやって成功した人がどういう気持ちだったか、それがどういう経緯で発見されたかという部分も一緒に伝わったほうが、科学が人間にとってどういう営みであるかがわかるんじゃないかと思います。

堀江

それに、科学者が実験の前後に何をしていたかをあれこれ考えるのは楽しいんですよね。パリに、サン・ジャックの塔というのがありまして、17世紀にそこでパスカルが大気圧の実験を行いました。もしかすると、すごく興奮してたから、塔にのぼる階段でつまずいたとか、途中、石畳で滑って転んでいるとか、そういう事件があったかもしれない(笑)。でも、それは記録に残らないわけです。実際のところ、科学者はデータ以外のことが気になるってことはないんでしょうか。

佐倉

科学の世界では、学会で発表するとか学術雑誌に論文を出すとか、研究の手順とフォーマットががっちり決まっていますよね。そのフォーマットに合ったことをやった先に初めて知識として蓄積されるという感覚があります。だから学術論文でない文章を書く、つまりフォーマットに合わないかたちで何かをするというのは、もちろんプライベートとしてはあるかもしれないけれども、「科学者としての仕事ではない」と割りきる人も多いかもしれません。

堀江

なるほど。でも僕の感覚では、プライベートなことが、純粋なデータに影響を及ぼすこともあるような気がするんです。よく寝た日とそうじゃない日、家族とけんかした日とそうじゃない日とでは、実験データが違ってくるんじゃないか、とか。料理なら味は変わるだろうし、少なくとも文章は変わります。そんなことで変わってしまうのは未熟な証拠かもしれませんけれど、いろいろな外圧や内圧があっても、トータルで見たときにその人の色が出ていれば、個々のデータにずれがあってもいいんじゃないかと。

佐倉

科学者からすれば、それはあくまでもノイズなので、できるだけその影響を小さくするように努めるのがプロの科学者の態度だ、ということになるんだと思います。

堀江

そこがたぶん、文系の世界との違いですね。ノイズも音のうち、ノイズもデータだという考え方ですから。ノイズのない音は、音にならないという世界で僕らは仕事をしている。言葉は、ノイズですから。

佐倉

そう、ノイズのない音はないし、文脈のないところに知識はない、というのが普通の社会なんですよね。科学者と社会とのコミュニケーションで問題になるのはそこで、いつ誰と話しても正しい知識が伝わらなければ失敗、ということになると、一般の人に科学の話をできなくなる。ノイズが入って、その都度伝わることが違っても、それはそれで意味があるんだと科学者はなかなか考えられないんです。

堀江

科学の長い歴史のなかで培われてきた抽象化の道筋や方法論は、身体感覚として科学者の体に染みているんでしょうね。

佐倉

ええ、そういう方法でやってきたからこそ、科学でなければ到達できなかったことがたくさんあるのは確かです。それはそれで尊重するべきですが、いつでもそれが通用するものではないし、場合によっては違う方法でコミュニケーションしなければいけないことを、科学者もそろそろ考えなければいけない時代だと思うんです。事業仕分けでスーパーコンピュータの必要性を問われると、「ああ、うう……」となるんじゃなくて(笑)。

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2006 (C) NATIONAL MUSEUM OF EMERGING SCIENCE AND INNOVATION