“科学”とひとくちに言っても、すでに確立して揺るぎないニュートンの法則から、異論続出の最先端仮説まで、そのありようはさまざまです。だから、私たちと科学の関係や、私たちと科学をつなぐものの姿も、なかなかとらえどころがなく、一筋縄では行きません。そんな混沌を少しでも見通し良くするために、科学とは何なのか、科学の鏡を社会に向けるとどう映るのか、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

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#08-2:牛場潤一(生命情報学者)

2009年4月29日

真理を導きだすプロセスは、すべての学問に共通だ(後半)

2.jpg 最先端の情報科学、生命科学、医学を結びながら新領域を切りひらく牛場氏は、異なる専門間のコミュニケーションをどのような工夫で活性化させているのだろうか? また、一方で優秀な若者が企業の研究室に活躍の場を求める昨今、大学はどのような意識で研究活動や教育活動を行えばよいのだろうか? 福沢諭吉の「実学」をキーワードに、話は展開していった。 (撮影=邑口京一郎)
大学のアイデンティティとは何か 
佐倉

研究者の世界にはそれぞれ分野ごとのカルチャーがあるから、違う学部の人たちと一緒に研究を進めるのは、たいへんじゃないですか?

牛場

そうですね。こういう分野は、良いテーマがあって総論ではかなり盛り上がるけど、実際一緒にやろうとするとやり方が違ってだんだん疎遠になってしまうことも多いようです。

佐倉

よくわかります。じゃあ一緒にやる文化をつくっていくための牛場さんの方法論は?

牛場

それはもう本当に泥臭い話なんですが、僕自身の体験で言うと、理工学部の学生時代からとりあえず毎日のように医学部へ行ってたんです。医局員のたまり場みたいなところがあるんですが、そこで会った先生や院生と雑談したりして。つまり研究者同士でなく人間同士のコミュニケーションがあって、仲良くなったうえで、次に「じゃあ、何か面白いことやろうか」というふうにもっていく。

佐倉

コミュニティを先につくって、そこから研究の題目が出てくるってことですね。

牛場

そのほうがうまくいくことが多いんじゃないかと思うんです。「さあこの研究を一緒にやりましょう」といきなり顔を合わせるのは、お見合いと同じで、合う、合わない、というマッチングの難しさがある。でも最初にコミュニティがうまく醸成していれば、「これはどうだろう」「あれはどうだろう」と、アイディアが出てきやすい。それにある程度の親しさがあれば、ちょっとした齟齬があっても許して進めていけるでしょう。僕は学生時代、いろんな楽器の人を集めてバンドをやっていたんですが、議論がもめて煮詰まると、「じゃあとりあえず飲みにいくか!」って(笑)。意外とそれで解決策がみえてくるんです。

佐倉

日本の企業がうまくいったのは、仕事の後に飲みにいく習慣があったからだともいわれてますよね。

牛場

ノミニケーション(笑)。

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佐倉

でも今、大型の研究プロジェクトは目標志向型で、決められた期間に決められた目的を達成するために、研究者が集められる方式がほとんどです。すると牛場さんが今言われたような、自由な議論のなかからテーマが生まれるような研究はなかなか出てこないですよね。このあたりをどうやって制度化していくかが問題だと思います。今とにかく大学に対して、「ちゃんと役に立つ研究をしろ」みたいな風潮が強いから……。

牛場

短期的なプロジェクトベースで、社会で活用できる技術がどんどん出てくるような研究はもちろんすごく意義があるし、僕自身も参加したいと思います。でも一方で、文学部でフランス文学をやっているうちのおやじのような人を身近に見ていると、現実社会から離れているように見えて、でも何十年か後にものすごい価値のある、普遍的なマイルストーンを置くような研究もいつかはやりたい。自分としては、生命とは何か、人の営みとは何かといった問いに答えを出すことが究極のゴールです。

佐倉

短期的な目的にしばられない側面というのは、いわば学問の研究には不可欠なところもあると僕自身は思うんだけど、今はそういうものに対する風当たりが結構強いんですよね。研究の評価も、ある期間内に提出した論文の数で計られるから、短期的な成果しかわからない。もちろん、きちんと目的を定めて達成することも一方で必要なわけで、要はバランスだと思うんです。

牛場

理工学部では、研究成果を社会へ還元するという意味で、今よく産学連携といわれます。確かに大学で生まれた新しいシーズを産業界にもっていくというのは重要なことです。でもそれが安直に履き違えられているケースもあるような気がするんです。今や企業は研究所をもっているところが多いから、マーケットを意識した開発は産業界でできてしまう。だから単純に商品化を目指して大学が同じようなものを狙う研究をやると、大学で研究をやることのアイデンティティがなくなってしまう。

佐倉

学生だって大学院に行かないで企業の研究所に就職したほうが、お給料ももらえるしね。

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牛場

そうなんですよ。だから一口に「研究」といっても、違う方向を目指すべきじゃないかと思うんです。企業は当然、自分たちに利益をもたらすような研究でなければならないけれど、大学にはそういう制約がない。特にカレッジじゃなくてユニバーシティなら、いろんな学部を横断する研究が可能で、そんななかから、専業企業には見出せない新しいシーズを生むこともできるはずです。

佐倉

時間をかけて人材を育成できるのも、大学ならではですよね。

牛場

ええ。とにかく「企業ではできない何か」を追い求めたうえでの産学連携でないと、大学が今後、じり貧になってしまうんじゃないかという気がしています。うちの祖父母から聞きかじったんですが、彼らの時代の社会における大学のスタンスって、今と全然違うんですよね。哲学者のサルトルやボーヴォワールが慶應に来たとき(1966年)なんてものすごい熱烈歓迎で、人だかりで通れなくなるほどだったそうです。あの時代には、何というか、学問への希求みたいなものが強烈にあったんだなあと。

佐倉

うんうん、大学が知の集積だった。

牛場

知にアクセスするためには、大学に行って教員と話をしたり図書館に行ったりしなければならなかったのが、今は裾野がすごく広がっていますよね。産業界はもちろん、インターネットで誰でも学会誌の論文を読める。総体的に頂(いただき)が低くなっているように思うんです。インテリジェンスが広く普及し、根づくこと、それ自体はよいことだと思います。ただ、たとえば今、「ノーベル賞をとった科学者が講演に来ます」というポスターを大学に貼っても、応募者が少なくて「えー!?」ってことになるそうです(笑)。たかだか数十年前に、哲学者が来るというだけであれほど盛り上がった時代はどこへ行っちゃったんだろうと。研究室の学生が、「研究を生涯やりたいです。でも大学院でなく企業の研究所に行きます」なんて言うのを聞くと、焦りますよ。大学の立ち位置って何だろうと。大学ならではの研究や教育を新しく構築し直さなければ、かつての大学の熱気をリバイバルできなんじゃないかと思うんです。

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戦争を終わらせる知性
佐倉

役に立つか立たないかで学問の価値が測られているという意味では、東大でも文学部のような存在に対する風当たりは、けっこう強いですよ。文学であろうと理系の学問であろうと、何かを知るということに関しては共通なんですけどね。

牛場

僕は文学も含めて文系も理系も、学問はすべて科学だと思っているんです。科学——サイエンスとは、ものごとの理を迷妄なく明らかにする思考のことで、その対象となるものが文学、言語、機械、生命であっても同じじゃないかというのが僕の考えです。もうひとつ、学問の分類で「実学」と「虚学」というのがありますよね。よく文学部のような学問は虚学で、実際に製品になったりして役に立つのが実学だといわれます。

佐倉

福沢諭吉が掲げた慶應義塾のスローガンは、「実学」ですよね。

牛場

ええ、よく誤解されるんですが、それは「実用学」とか「実業学」という意味ではないんです。実学とは本来、真実に根ざして構築されている理論とか、真理を導きだすプロセスのことをいうんだと思います。一方で虚学とは、妄信的に教典を信じて学ぶこと、たとえば中世の医学や神学にはそういうものがありましたよね。それがルネッサンスの後にガラガラと崩れて変わっていった。つまり疑ってかかること、本質に迫ろうとすることを思考のプロセスで使う学問は、全部実学だというのが僕の考えです。そういう意味で「実学」とは、サイエンスのことなんだと思います。

佐倉

福沢諭吉の唱えた「実学」の実は、事実の実なんですよね。当時、儒学のように古い教典を文字でなぞるようなものこそが学問だという風潮があったんだけど、そうではなく、実際に起こっていること——現実、事実にもとづいた学問を、というのが福沢の意図だった。だから福沢は西洋から入ってきた「science」という言葉の訳語として、「実学」をあてようと考えていたという説もあります(注4)。単なる「実用の学」ではなく、はるかに幅広く基礎的な学問も含んだ概念であることは確かですね。

牛場

そういう意味で僕は文学も実学だと思っています。

佐倉

でも一般的には文学って、芸術と同じで感性とか趣味的な領域だと思われているんじゃないですか? 

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牛場

うーん、でも芸術もある意味では、本質に迫ろうとする営みなんじゃないかでしょうか。アーティストは見る人の感情をかき立てるために、あるいは自分自身の内面を表現するために、いろんなものをそぎ落としながらエッセンスを追究している。そのプロセスは「虚」からは離れているように思えます。

佐倉

なるほど。「学」かどうかはともかく、「実」であると。

牛場

大学生のころ、大学で学問なんかやっていても役に立たないんじゃないかと思った時期があるんです。学問は世の中が平和だから成り立つもので、たとえばもし身近に戦争が起きたら、自分には何の価値もないんじゃないかって。でも、たとえば戦争が起きる過程というのは、相手に対する疑心暗鬼や怒りの感情がたまりにたまって転がり出すようなところがありますよね。そういう過激が過激を生むようなサイクルを断ち切ることができるのは、知性だとあるとき思ったんです。真実とは何かをぶれずに思考できる人、あるいはそれを人に教え広めていける人の集まりが、戦争を終わらせることができるんじゃないか。そういう意味で実学的な思考は価値をもち続けるんだと考えるようになりました。

佐倉

そういう思考ができる人を増やしていくのは、教育の役割ですよね。

牛場

はい。ひとりで声高に主張しても、誰もついてこない。実学的な思考を理解できる人間を世界に増やしていくのが、教育の究極的なミッションなのかもしれません。

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佐倉

そうですね。昔は狭い共同体のなかで、ひとつの宗教的な教義を伝えることで社会がうまくいっていた面がある。でも今われわれが生きているのは、キリスト教やイスラム教、チベット仏教などさまざまな宗教のある広い世界です。そこで宗教間で対立するのでなく、個々の宗教を越えた普遍的な思考、つまり事実にもとづいて考える実学的な思考、科学の思考を教育することが大切なんだと思います。

注4:「science」の訳語に「実学」をあてようと考えたとする説

辻哲夫『日本の科学思想』(中公新書)による。丸山真男(著)・松沢弘陽(編)『福沢諭吉の哲学』(岩波文庫)も参照

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