“科学”とひとくちに言っても、すでに確立して揺るぎないニュートンの法則から、異論続出の最先端仮説まで、そのありようはさまざまです。だから、私たちと科学の関係や、私たちと科学をつなぐものの姿も、なかなかとらえどころがなく、一筋縄では行きません。そんな混沌を少しでも見通し良くするために、科学とは何なのか、科学の鏡を社会に向けるとどう映るのか、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

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#05-2:三好春樹(理学療法士)

2008年7月15日

介護と科学の“モード2”をさぐる(2)

2.jpg 介護の現場を熟知する三好さんならではの老いや死生観をめぐって、後半の対談は進む。浄土真宗の思想や「介護」の語源など、三好さん独自の視点が光る解説にうなずかされつつ、「現場の実践と理論をどうつなぐか」という、この対談のそもそものテーマへと話題は収斂していく。果たして将来、老人大国の日本から新しい介護の理論は生まれてくるだろうか? (文=阿蘭ヒサコ、豊永郁代 撮影=邑口京一郎)

みよし・はるき
生活とリハビリ研究所代表。1950年生まれ。高校中退後、特別養護老人ホーム勤務を経て九州リハビリテーション大学校に入学、理学療法士の資格を取得。85年「生活とリハビリ研究所」設立。年間180回に及ぶ講演と実技指導で現場からの熱い支持を集める、この分野の第一人者。主著に『痴呆論』(雲母書房)など

アンチ・アンチ・エイジングへの発想転換
三好

近代科学の考え方は、時間とともに人類や社会はどんどん上向きで良くなる一方だという前提に立ってるでしょう。だけど実際、個体としての人間のベクトルは、最初は上向きだけど、時間が経つとだんだん下がっていく。この矛盾が、老人問題だといわれているんです。

佐倉

ああ、そう考えるとわかりやすいですね。でも下がったベクトルの先で、どこに帰っていくかが問題ですよね。

三好

そう、「行きっぱなしの思想」はあるけど、「帰り道の思想」がない。 浄土真宗の言葉に、往相(ルビ:おうそう)と還相(ルビ:げんそう)というのがあります。小乗仏教では穢土(えど)から浄土へ行く(=往相)だけでおしまいですが、浄土真宗では、浄土へ行って自分は助かったけど、他のみんなは苦しんでいるじゃないかとまた穢土へ戻る(=還相)。これを「発達と老化」に置き換えてみるといい。発達はみんなする、だけど、問題はそこからどう還ってくるか。そう考えると、老いというのは人間の問題として普遍的になるんじゃないかと思います。

佐倉

うちには高校生の息子と小学生の娘がいるんですが、最近は小学校のうちから「キャリア教育」なんてやってるんですよ。自分のやりたいことを早くから見つけましょうって。なんか違和感あったんですが、今わかりました。あれは自立して高く上がるためにスキルを身につけよう、ということなんですね。

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三好

そうです、生(せい)の効率主義。自立(注8)した個人たれ、ってね。でも下から見てると、そんなに高く上がっても、落ちてくるのは同じところなんですよ。インディペンデントよりむしろ、インターディペンデント。つまり「相互依存」の中で生きてきた人のほうが最後は強いですよ。上り方より下り方のほうが、実は大事なんです。

佐倉

昔は仏教のお寺でもキリスト教でも、下りの考え方を説いていたと思うんですけどね。

三好

日本には「老いの文化」ってありますね。老人に似合う服とか。それから「隠居」という文化もあった。アメリカだと老いは負けだから、派手な服着てアピールしないと相手にされない。辛いと思いますねえ。アンチエイジングなんて錬金術みたいなことはできないですよ。老いは戦うものではなくて受け入れて活用するものです。ちなみにアメリカでは介護職のことを“care giver”っていうんですよ。“giver”(あげる人)ってちょっと違うだろうと思うんですけどね。

佐倉

そういえば日本で以前は、「介護」って言葉はなかったですよね。「社会福祉」と言ってた。

三好

「介護」の介は媒介の介。媒介というのはヘーゲルの言葉の訳語で、あるものを通して他のものを存在させるもの、という意味。つまり介護とは、私という存在を媒介として、老人という他の主体を存在させるということなんです。面白い言葉でしょう。今、厚生労働省では「ケア」っていう言葉に一元化しようとしてますけどね。

佐倉

僕はもともとチンパンンジーの生態や進化の研究をしていたんですが、動物は子を産めば、つまり子孫を残せば役割は終わりなので、「老後」というものがない。こんなに老後の長い動物は人間だけだし、その人間もここまで老後が長くなったのはたかだか最近50年ほどのことです。だから人生のなかで老いの部分をどう位置づけるか、というのはこれまであまり考えてこられなかったんですよね。ある歴史家が、人間は子どもを育て終えた60歳から90歳の間に何をするかで真価が問われるといってたけど、みんながその年代に大きな成果を残せるわけでもないし。

三好

100歳近くになっても現役で頑張ってるなんて人が、理想的な老年として世間でもちあげられますよね。でもそれは特殊な例。それを目指すのは間違ってますよ。むしろ、そんな元気に見える自分も実はオムツをしていた、なんてカミングアウトすれば、どれだけ多くの人が救われるか(笑)。

注8:自立

自分の力で生きていくこと。介護分野での自立はADL(日常生活動作)について語られることが多い。介護保険の目的として、自立支援が声高に叫ばれている。老いや障害のある人がADLを自立してできるよう、ベッドの幅や高さを一人ひとりに合わせて調整することは介護の基本である。しかし、重い障害や老化が進んだ人にまで自立を求めるのは非現実的である。赤ちゃんが親や社会の保護を受けるように、高齢者が介護を受けるのは自然なことだからだ。介護とはいわばその人にふさわしい依存状態をつくり出すことだといってよい。老人問題は、自立に過大な意味を見いだそうとする社会がつくっているともいえる。★


介護から日本発の新しい思想を!
三好

特養で働いていたときに、あるおばあさんが亡くなってお通夜があったんですが、親族も誰も来なかった。世の中の人は冷たいなって、私、ちょっと怒ったんです。その後、ある看護師さんが30代で亡くなったんですが、大勢の人が泣いて、すごく悲しいお葬式でした。そのときに、「ああ、あのおばあさんの死は誰も悲しませない、いい死だったんだ」って思ったんですよ。「あのばあさん、まだ生きてたんだ」って思われるような死に方が、いちばん立派なんだと。なんだか介護の世界に入っているとね、いろいろ考えさせられて、みんなちょっとずつ哲学者になるんです。

佐倉

わかります。老いっていうのは、人の生と死の両方を考えることですからね。

三好

介護は、理科系と文化系の両方を含むんですよ。「老化」と「老い」の両方が入ってますから。老化は理科系的で、老いは文化系的。だから私も、いろんな本を読んできましたが、何でも役に立ちましたよ。科学も哲学も社会学も、マルクスなんかでも。

佐倉

でも、そんなふうに現場で蓄積されているさまざまな知恵をうまく引き受ける、学問の枠組みが、まだないんですよね。

三好

そう。現場では日々すごいことが起きていて、皆いろんなことを感じてるんだけど、まず言葉にしない。たとえ言葉にしたとしても、理論になんてできない。介護は哲学を求めてるんですよ。そして恐らく哲学も、介護を求めてる。かつては「人間とは何か」を考えるための対象のひとつとして精神病があったけど、今、そういう問いの対象として、介護があると思います。

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佐倉

例えば鷲田清一(注9)さんは「臨床哲学」というのを唱えてますが、哲学の理論を現場にどう生かすか、あるいは現場の知をどう取り出すか。やはりこのふたつをつなぐ回路が弱いんですよね。現場の知と理論の往還がない。でもその往還の部分をやろうとすると、「それは学問じゃない」って言われたり……まあ僕なんかもよく批判されるんですが(笑)。とにかく日本は老人大国ですし、今後の日本からオリジナルな思想が出てくることを期待しています。

三好

そうですね、そういう意味では日本は最先端にあるはずですからね。 私、この間「北欧行くよりインドに行こう」っていうツアーを企画したんですよ。そしたらものすごい反響で。なぜインドかというと、北欧はやっぱり上向き志向でしょう。でもそんなに上ばかり見たってあんまり幸せじゃないから、下にもぐろうよ、と(笑)。インドは「生まれる・生きる・死ぬ」っていうシンプルな世界ですから。

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佐倉

科学と社会の関係を考えるうえでも、やはりヨーロッパに学ぼうという姿勢が強いんですよね。でも、そもそもこれまでの日本は、まったく文化の異なるヨーロッパから科学を取り入れて、なんとかやってきた。それを考えると、むしろインドや中国、あるいはマレーシアやインドネシアなど東南アジアの国々に行って、彼らがどういうふうにヨーロッパの科学と悪戦苦闘しているかを見たほういいんじゃないかな。それによって自分たちのメリットやデメリットも客観的に見えてくると思うんです。

三好

古い本ですが、堀田善衛さんの『インドで考えたこと』の最後に見事な文章がありましてね。「アジアは、生きたい、生きたい、と叫んでいるのだ。西欧は、死にたくない、死にたくない、と云っている」。日本はもう西欧化されて、生きられるのが当たり前になった。それで「死にたくない」と言って、脳トレやったり、納豆買い占めたりしてる(笑)。でも日本にも、たとえ病院で手足を縛られても、「もう一回生きたい」っていう人が絶対いるんですよ。それを応援するのが介護なんです。

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注9:鷲田清一

哲学者、大阪大学総長。大学の研究室内に閉じこもる哲学ではなく、看護や教育、寺社などさまざまな現場に足を運び、対話のなかで哲学する「臨床哲学」を提唱している。


三好春樹さんとの対談を終えて

対談の中でも触れているが、三好さんは父の介護に戸惑うぼくにとって、まさに旱天の慈雨、砂漠のオアシス、地獄で見つけた一筋のクモの糸、だった。三好さんの言葉によって、ぼくは肩の力を抜いて気楽に構えることができた。しかし、そういう人と実際に会うのは、期待半分、心配半分でもある。著書から想像したイメージとかけ離れていたりしたら、ぼくはきっと混乱し、また迷うことになるかもしれない。だが、ぼくの心配は杞憂に終わった。三好さんは本に書かれているとおりの、いや、それより、もっと大きく、強い人だった。何と言っても、現場の知と理論の知の両方を、これだけバランス良くブレンドできるというのが、驚きである。今回の対談で、そのコツを少しでも引き出せればと思って何度かトライしてみたが、果たせなかったのが残念だ。もっともっと時間をかけてお付き合いさせていただく必要がありそうだ。今後ともよろしくお願いします、三好さん。
(佐倉統)

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